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先端課題研究23「〈面白い〉研究の研究──規格不能性と向きあう」
第1回研究会報告の概要と批評

不確実性への応答──資料に出会い、現場に学ぶ

辛 承理
一橋大学大学院 社会学研究科 博士課程

 本研究会は、科学研究費挑戦的研究(萌芽)「ノンスケーラビリティ再考──不安定で不確定な現代社会に資する人文社会学の構築」(24K21385)の一環として企画されたものである。
 第1回研究会は2025年4月23日(水)15時から17時に、マーキュリータワー5階3509で開催された。初回ということもあり、研究会の趣旨と進め方についての確認がなされたうえで、研究会代表者のひとりである赤嶺淳が研究報告をおこなった。
 本稿では、赤嶺報告およびそれに続く討論を、筆者の視点から整理しつつ、自身の研究を踏まえて批評したい。


1.研究の「面白さ」は言語化できるか?──赤嶺淳

 「研究の『面白さ』は言語化できるか?──〈面白い〉研究の研究規格不能性に向き合う」と題された報告では、アナ・チンの『マツタケ』から学ぶ1)、現代に必要とされている人文社会学とは何かについて自身の研究を事例として報告がなされた。

研究会の趣旨

 研究においては方法論が重要であるが、それ以前に、いかなる問題意識をもって研究を構想するかが重要である。そこにおける研究の〈面白さ〉とは、作品を制作する研究者自身が体感できるものである。
 一橋大学は個人研究に没頭できる恵まれた環境がある反面、周囲の研究者が互いの研究内容や関心に触れ合う機会が少ない。それぞれが異なる分野や世代であるからこそ、感じている研究の〈面白さ〉は多様である。
本研究会は、この多様な〈面白さ〉を共同研究として議論することで、人文社会系の学問と本学における研究の活性化を図ることを目的として組織されたものである。

 

『マツタケ』からの学び

 赤嶺は、自身の研究の出発点について、学部時代に出会った鶴見良行との出会いを挙げた。鶴見が実践してきた「モノ研究」とは、ひとつの食材を手がかりとして、そのサプライチェーンを追っていく方法論である。
 2017年に出版された『鯨を生きる』では2)、鯨食を中心とした鯨人6名の個人史を聞き書きし、『朝日新聞』と『読売新聞』など4大新聞の分析を組み合わせた研究である。赤嶺は、この著作を振り返り、鯨食を中心的な議論としたことへの反省を語っていた。とくに、戦前戦後直後の新聞を分析するなかで浮かび上がってくる「鯨油」の外貨獲得資源としての役割について、考察できなかったことが課題として残っているという。
 たとえば、戦前に日本で初めて南極海に捕鯨船を派遣したのは、現在の日本水産(ニッスイ)であり、当時は鮎川義介が率いていた日産コンツェルンの水産部門にあたる。日産コンツェルンは、満州の大豆や朝鮮半島のイワシ油などを加工する日本油脂という別会社まで持っており、広範な油脂産業を展開していた。こうした財閥が、なぜ南極に捕鯨船団を派遣したのか、その意義と意味について議論できなかった点を、自身の研究上の課題として改めて位置付けたと語った。
 そのころ、赤嶺が並行して取り組んでいたのが、アナチンの『マツタケ』の翻訳であり、チンの問題意識のスケールの大きさや構想力に深い衝撃を受けたという。
『マツタケ』は多様な示唆を与える著書であるが、赤嶺自身はその学問的貢献について、「不確定な21世紀を生きるわれわれに、どのような社会科学が求められるのか」を読者に問いかけている点にあるという。そのひとつの方法として、チンは、マツタケとマツ類、岩石などの複数種間関係(multi-species relationship)に着目した。赤嶺は人間中心主義を否定しながらも、複数種間関係ではなく、古典的な「鯨類と人類の関係性」の変遷に着目して「近代」を再考しようとしている。

マーガリンの社会史

 赤嶺は近代を「資本蓄積を目的とした収奪型経済からプランテーション経済へ移行する過程」ととらえている。そのうえで、着目しているものが1869年に発明されたマーガリンである。
 産業革命を契機として潤滑油に使用されるようになった鯨油は、蝋成分が含まれた歯鯨類のもので人間が摂取できない性質のものであった。20世紀、マーガリンの原料となった鯨油は、鬚鯨類から搾油されたものであり、人間が消費できるものである。
 マーガリンは自然物である牛乳から生成されるバターの代用品として人工的に作られたものであり、20世紀初頭以降にヨーロッパで爆発的に消費されるようになった。
 20世紀初頭に液体油を固形化する技術がドイツで発明され、液体の鯨油をマーガリンや固形石鹸の原料とすることが可能となる。固形石鹸の場合には、その過程で副産物であるグリセリンが分離され、それを加工するとダイナマイトの原料であるニトログリセリンができる。こうして、鯨油は世界商品として利用されてきた歴史を持つ。
 しかし、1960年代、IWC(国際捕鯨委員会)の管理強化をうけて世界の鯨油市場が崩壊するにつれて、東南アジアではアブラヤシのプランテーションが、ブラジルでは大豆のプランテーションといったように油糧植物の栽培が拡大していく。こうした傾向を、赤嶺は「収奪型経済の典型例である捕鯨から、アブラヤシや大豆という新たな油脂資源のプランテーション経済への移行」と読みとっている。この油脂間競争の変容が現在の赤嶺の研究課題であり、将来的にはマーガリンの社会史の執筆を目標しているという。
ふたたび、鶴見良行の話に戻ると、鶴見が着目したバナナというのは非常に身近な商品であり、そこから日米比の三カ国間の関係を描き出したことを、赤嶺は「卓越した着眼点であった」と評価していた3)。それにくらべ、鯨肉は現代日本においては日常的なのものではないが、油は身近なものである。だからこそ、今はなき鯨油に着目することは、鶴見の「身近なモノを通して世界を読み解く」モノ研究の姿勢を、今日的に継承することをめざすという。

 

江戸期日本の漂流民と捕鯨船

 鯨類でもなく、捕鯨でもなく捕鯨問題の研究者を自称する赤嶺は、捕鯨を通じて日本の近代を捉えなおす作業を目論んでいる。マーガリンの社会史構想もその一貫である。研究発表では、近代の端緒となる開国研究について紹介した。
 一般に、ペリー来航は日本近海で海難事故にあった米国の捕鯨者の保護をもとめていたことになっている。しかし、赤嶺の問いは、そうした通説的な理解に対して、「本当のところは、どうなのか?」という疑問から出発している。そこには、戦後日本における、国際関係を日米関係だけで考える傾向に対する批判的視点が問題意識の根底にある。そこで万次郎のような日本の漂流民に着目している。
 万次郎は足摺岬で生まれ、数え15歳で鳥島に流され、米国の捕鯨船ジョンハウランド号に救われる。この出来事が偶発的なものであったのか必然的なことであったのかを問いなおす過程で、赤嶺はふたつの発見を得たと語っていた。
 まずは、2025年3月に万次郎の生誕の地である足摺岬を訪れた際、その切り立った崖の地形から沿岸捕鯨を成り立たせた条件に気づいたという。黒潮に沿って鯨類が回遊するだけなら、湘南でも捕鯨業が成立してもおかしくないが、実際には湘南では捕鯨業が成立しなかった。足摺岬や太地など、太平洋側で古式捕鯨をおこなわれていた地域には、沖を回遊する鯨を見るのに適した遠見が可能となる地形が共通的に存在していた。黒潮という鯨類が回遊する条件が存在することも捕鯨業の成立には必要であるが、実はもうひとつの生態的/地形的条件が不可欠であったことを発見したという。
 ふたつめは、太平洋漁場における国家の多元的関係性である。1819年、ジャパングラウンド(日本漁場)が発見されたのは、ボストンの商船が広東からハワイに航海中に日本近海でマッコウクジラの群れを発見したことに由来する。その商人はハワイ諸島に自生した白檀を広東に輸出したり、あるいは北米大陸の北西海岸でラッコの毛皮を先住民から入手したりしていた人物であった。ジャパングラウンドが絶頂期であったのが1820年〜1840年代であり、その過程で1835年にはアラスカに北太平洋漁場が開発されていく。1841年に漂流した万次郎が捕鯨船に救出された背景にも、こうした背景が影響している。
 しかし、これまでの研究では太平洋の漁場は日米の単線的なとらえ方で、ジャパングラウンドのみが語られていることの危険性を赤嶺は指摘している。より北方のカムチャッカやオホーツクの漁場など、日露関係や英中アヘン戦争など、太平洋の覇権をめぐる争いから漁場の進出と外交関係の繋がりを多元的に分析する必要性を強調していた。


2.鯨油を起点とする歴史の読み替え──質疑応答から

 質疑応答のなかで最も活発に議論が交わされたのは、歴史をとらえる際のふたつの見方についてであった。ひとつめは、あらかじめ社会構造があり、その結果として個々の出来事が生じるという立場。もうひとつは、偶発的な出来事の積み重ねが結果として社会構造をかたちづくる、という視点である。従来の日本の戦後歴史学は前者にあたり、社会構造から歴史を読み解く立場であった。これに対して、赤嶺は、「偶発性」に着目し、そこから歴史の全体像を読み替えることで、新たな知見を提示している。
 その着目が特徴的であるからこそ、資料との出会いや、読み解く際のスケールの問題に関する質問が寄せられた。捕鯨に関連する一次資料は比較的多くが公開されているからこそ史資料を入手することが難しくないが、その膨大な量を読み解くには相応の時間と努力が必要となる。赤嶺は、こうした史資料の研究に加えて、現代における調査も積極的に重ねている。
 たとえば、万次郎の生誕の地である足摺岬へ向かったことや、共同船舶株式会社の捕鯨母船日新丸への乗船、太地町の追い込み漁の現場、さらに東南アジアのヤシ類農園まで。研究会の限られた報告時間にもかかわらず、数えきれないほどのフィールドでの物語が語られ、聞き手がまるでその場の風景を目の当たりにしたかのような臨場感と没入感を感じさせた。
 こうした「追体験」を通じて培われた実践的な知識が、先行研究や資料を読み直すなか、研究者自身の直感的な懐疑──「どうもそうは思えない」と感じる瞬間──とつながるひらめきの瞬間があると赤嶺は語った。筆者は、その過程にこそ、赤嶺が実感している研究の〈面白さ〉が宿っているのではないかと感じた。


3.方法にならない方法──他者の経験と物語

 赤嶺の研究におけるもっとも大きな特徴は、他者の経験を自ら追体験し、そこから問いを生成・具体化していく実践的姿勢にある。赤嶺は、このような「追体験」を、チンの『マツタケ』から学び取ることができたと語った。
 チンは、マルチスピーシーズ民族誌という方法を通じて、人間と非人間的存在(樹木、菌類、岩石など)との関係性に注目し、不確定で不安定な現実社会のありようを描き出している。そのため『マツタケ』は、2004年から10年をかけてアメリカ合衆国、日本、フィンランド、中国で実施されたフィールドワークに基づいて執筆され、さらに、人類学者、生態学者、菌類学者、マツタケ関係者など、多様な専門家や関係者とともに現場を歩くことで、マルチサイテッド・エスノグラフィーの手法を実践したものとなる。
 赤嶺は、その翻訳にあたって、作中で言及されているフィールドを自ら追体験することによって、チンの方法論を学んだと語る。その追体験とは、わたしの理解では、個々の生における記録や経験をたどり、その意味を再構成していく営みではないかと思う。
たとえば、教科書的な知識として一度は誰もが学んだことのあるジョン万次郎の生に対し、赤嶺は、あらためて自ら問いを立て直し、その足跡をたどることで、新たな発見と意味を導き出している。方法論を学び、追体験することは誰もが可能である。しかし、赤嶺の実践からは、体系化された知識を学ぶだけでは得られない着眼点や想像力、行動力が感じられた。
 筆者も学部時代に赤嶺の著書『ナマコを歩く』4)と『鯨を生きる』に出会い、「現場に学ぶ」という方法に強く惹かれたことを今でも覚えている。その影響を受け、筆者自身もこれまで、有機農業を取り組む農業者たちのもとを訪ね、彼らの営みを追体験するかたちで調査をおこなってきた。
 当初は、農業者が都内に野菜を販売、もしくは納品するタイミングで話をうかがっていたが、彼らの現場に向かうに全く異なる語りを得られた。たとえば、有機農業に取り組む理由をたずねたとき、販売先では都内での有機農産物の需要が大きな理由として挙げられていた。現場に向かうと、ある農業者は大好きな里山の風景を案内しながら「この山が好きで、見守りたいから」と答え、別の農業者は家庭で代々受け継いできた農法や幼児期の経験を聞かせてくれた。その言葉や行動には、それぞれの価値観や農業観がにじんでいた。
 赤嶺の実践から学んだことは、こうした現場に身を置き、追体験することが、単なる調査手法やデータ収集の手段にとどまらず、自らの問い自体を揺さぶる経験であるということだ。筆者の場合には、農業という営みを経済合理性のみで読み取ろうとした姿勢に反省し、生活世界としての農業に着目する機会となった。
 さらに、現場に学ぶとは、あくまでも出発点であり、そこからどのように社会や学問に応答していくのかが問われているのだと感じた。ひとりの参加者が「方法にならない方法」と表現したように、赤嶺の報告には体系化できない独自の方法論があり、そこからノンスケーラブルな問題を解いていこうとしている。だからこそ、赤嶺の報告タイトルが疑問形の「言語化できるか?」となっている意図が理解できた。方法としてまとめきれない、言語化することのできない方法論を指しているのだろう。

1)Tsing, Anna, 2015, The Mushroom at the End of the World: On the Possibility of Life in Capitalist Ruins, Princeton: Princeton University Press.(=赤嶺淳訳,2019,『マツタケ──不確定な時代を生きる術』みすず書房.)

2)赤嶺淳,2017,『鯨を生きる──鯨人の個人史・鯨食の同時代史』吉川弘文館。

3)鶴見良行,1982,『バナナと日本人──フィリピン農園と食卓のあいだ』岩波新書。

4)赤嶺淳,2010,『ナマコを歩く──現場から考える生物多様性と文化多様性』新泉社。

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© 2025 くにたち歩く学問の会        発行:東京都国立市中2-1 一橋大学大学院社会学研究科赤嶺研究室

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