top of page

いなくなったが忘れられていない
──誰のための研究なのか、誰のための歴史なのか

樋浦 ゆりあ
一橋大学大学院社会学研究科 博士後期課程/日本学術振興会 特別研究員(DC2)

1.研究とは何か──自由と責任のあいだで

 

 研究とは何か。私は立ち止まって考えてみる機会を得た。先端課題研究23の第2回の歴史学と質的調査、第3回の〈教育と社会〉研究、地理学、計量的調査といった様々な分野を専門とする教員の講義を受けた。これらの研究の多くは、専門分野をはみ出してみたり、広げてみたり、面白くないのはなぜかと批判的にみたりといった試みがあった。何十年も研究に携わってきた教員の飽くなき研究の探求を前に圧倒され、自分も同じようにエンジンをかけられるだろうかと思った。
 私は現在、博士後期課程の学生であり、「研究者」とそのまま名乗ることはできない。研究者とは企業に勤める者もいるが、一般的に馴染みのない職業だと思う。ましてや、「文系」と略される人文社会科学系は、イメージを持たれないか、「理系」よりも軽んじられて見られるという所感がある。
 文部科学省によれば、学術研究は次のような意義があるとされる。

 大学等における学術研究は、研究者の自由な発想と研究意欲を源泉として行われる知的創造活動であり、人間の精神生活を構成する要素としてそれ自体優れた文化的価値を有するものである。その成果は人類共通の知的資産となり、文化の形成に寄与する。また、多様性を持った学術研究が幅広く推進される中から、未来社会の在り方を変えるブレークスルーを生み出すなど、国家・社会発展の基盤ともなるものである。(文部科学省 2002)

 研究者の行う(学術)研究とは、自由な知的創造活動かつ、人類共通の知的資産で文化的価値を持つ。さらに多様性を持った学術研究により、未来を拓き、国家・社会発展の基盤ともなるという。しかし、冒頭の前半の「研究者の自由な発想と研究意欲を源泉として行われる知的創造活動」と、後半の「その成果は人類共通の知的資産となり、文化の形成に寄与する」という文言のあいだには、個人の「自由」と人類の「遺産」という目的の極に矛盾のような決まりの悪さを感じる。
 このように相反する研究の意義について、本稿はその両者の目的を理解する糸口を論じる。研究の端緒は、個人の自由な発想や研究意欲という研究する者の社会との関わりが重要である。一方で、人類や未来の社会や文化の形成を変化させるという壮大な社会的な影響も求められている。よって、実践という社会と研究は切っても切り離せないのであり、研究と実践は互いを刺激しながら発展させている。より具体的には、社会学や人類学といった分野は実践と切っても切り離せない関係を持つ研究が多い。では、歴史学はどうだろうか。歴史学に最も重要なのは史料である。歴史学は、史料という「過去」のピースを繋ぎ合わせ(時には凹凸を削り)、歴史というパズルを作る。図書館や文書館に通って「過去」のピースを集め、歴史のパズルの作成に励む歴史学の所作は、実践という社会との距離が他分野と比べて遠いことは否めない。しかし、パズルのフレームの外では、様々に歴史学を研究する者が実践と向き合い、フレームの内部を刺激している。本稿は歴史学の実践から歴史学の目的を再考する。
 私は2025年8月に初めて調査地を訪れた。アメリカ合衆国ヴァージニア州は、南東部に位置し、この地ははるか昔からポウハタンやチカホミニーといった先住民が暮らしていた。やがてアメリカ大陸にヨーロッパからの入植が行われ、17世紀のイギリス植民地の最初の定住植民地となり、18世紀にアメリカ合衆国の州となった。
 ヴァージニア州と私を繋ぐゆかりは、研究以外に何もない。この州を研究対象に決めた時点では訪れたこともなく、13植民地のひとつであること以外に知らなかった。よって、20世紀のヴァージニア州の歴史に足を踏み入れることは、初めての土地を歩くことを意味したが、それは開拓者というより啓蒙学者が開拓者から情報を仕入れて論じるスタイルに等しかっただろう。コロナ禍の渡航制限や円安が進行しつつも、インターネット・アーカイブが充実する中、遠く離れたアメリカ合衆国という日本にとっての外国史を研究することに私はハンデを感じなかった。
 そもそも、なぜアメリカ合衆国なのかという理由には、2016年の大統領選挙のドナルド・トランプの当選の衝撃にあった。自国中心主義や物議を醸し出すレトリックを繰り広げる大統領のいる国で、アメリカ合衆国で最も深刻に剥き出されるレイシズムが歴史的に形成されたことに関心を持った。
 しかし、日本で手に入る史料は限られていた。史料閲覧に制限があり、現地に行って収集する必要があった。家族の理解と日本学術振興会の支援により、ようやく博士後期課程3年目に現地に行くことができた。

 


2.街の声と沈黙にふれてみる
  ──ヴァージニア州シャーロッツヴィルでの体験


 アメリカ合衆国に行って強く感じたことは、「人びとの声が大きい」ことである。他人に干渉する文化習慣に、私はひたすら応えるしかない。席の隣に座るだけで目を合わせ、挨拶し、時には会話を交わす機会は日本で数少ない。アメリカでは、煩わしいほどにコミュニケーションを取る必要がある。しかし、「声」は生身の人間以外も発していた。
 ヴァージニア州シャーロッツヴィルでは、現代のアメリカ合衆国における人種差別と政治的分断の象徴となる事件が起きた。市が南北戦争で南軍を指揮したロバート・E・リー将軍のモニュメント(銅像)の撤去を決めたことを発端とし、2017年8月に極右集会が開催された。全米から白人至上主義者や極右団体が集まり、反対する市民や反人種差別団体と衝突し、街は緊張に包まれた。12日にはデモ参加者の男性が車で群衆に突入し、女性1人が死亡、十数人が負傷する惨事となり、国内外に衝撃を与えた。
 シャーロッツヴィルにはヴァージニア大学があり、私の調査地であった。大学図書館の閉館する5時や7時の後に、できるだけ街を歩いてみた。ダウンタウン・モールという繁華街は、空が明るい時間から活気があった(図1)。華やかな一本の平坦な遊歩道が20ブロックほど続く。平日でも週末でも家族や友人と飲み交わす人々が多い。そのほとんどが白人と見受けられる。屋外ステージのあるシティ・ホールのそばには、合衆国憲法修正第一条のモニュメントがあり、用意された記念碑にチョークで多くの言葉が書かれていた(図2)。合衆国憲法修正第一条は、「言論・出版・集会の自由」であり、記念碑はそれを体現しようとしていた。
 

h-image1.jpeg

図1 ダウンタウン・モールの様子

h-image2.jpeg

図2 合衆国憲法第1条のモニュメント

 ダウンタウン・モールから南に一本の通りを変えると、街はややひっそりとする。ウォーター・ストリートには歴史的な建物が建ち並び、私はある2つの建物が気になった(図3)。ダウンタウン・モールに続く道の間、街灯に花や装飾がなされたそばの両脇の建物の壁にはチョークのやや読みにくいアルファベットが並ぶ(図4)。片方の壁に“SUPPORT”、“GONE BUT NOT FORGOTTEN”、“CHANGE”、もう片方に“BLACK LIVES MATTER”、“NATIVE LIVES MATTER”、他にも言葉として認識できずに消された文字や文字と判別できないものが煉瓦造りの壁に乱雑に描かれる。プロテストである。これらの言葉の数々を前に、私は壁から叫びのような声が聞こえるような気がした。ダウンタウン・モールに続く急峻の坂の下からの叫びである。しかし、この時の私はこの場所の文脈を知らず、プロテストする落書きだと思った。叫びは聞こえてくるものの、声に何が込められているのかわかっていなかった。
 また、ダウンタウン・モールから北に一本通りを変えても、南と同じ状況である。北側には2021年に撤去されたリー将軍のモニュメントがあった公園があり、薬物のような臭いが漂った(図5)。そこは静かだった。ベンチには一人か数人がいて集まり、騒ぐこともなくそこにいる。リー将軍は、1861年から1865年に起きたアメリカ合衆国最大の内戦で、最大の戦死者を出した南北戦争の南部連合1)を率いた軍司令官である(ヴァージニア州出身者でもある)。リー将軍のモニュメントの意味は、リー将軍が南部連合を率いて何をしたかが問題ではなく、そのモニュメントの存在自体にあった。それは、南部連合という奴隷制を支持したかつての国家を肯定した、南北戦争後の白人至上主義の象徴としてあり続けたからである。白人至上主義やレイシズム、奴隷制の肯定を彷彿とさせるモニュメントが公共空間に設置されていることの是非は、20世紀末から議論されてきたが、2020年のBlack Lives Matterの隆盛で全世界が一気に撤去や移動の方向に舵を切った。シャーロッツヴィルのモニュメントもその潮流に乗っていた。看板があるわけでもなく、そこにかつての白人至上主義かつレイシズムの象徴とされた人物のモニュメントの痕跡はなく、現在は静かな公園になっている(図5)。リー将軍の名を冠した公園や通りの名称も変更され、何の特徴もない公園になった。シャーロッツヴィルの後に私が行った首都リッチモンドにもリー将軍の他のモニュメントがかつてあり、撤去されていた。そこも同じく目に見える痕跡はなく、ただ草が生い茂っている道路の中央分離帯の役割のみで、車の行き交う沈黙があった。公園を歩き回る私を珍しそうに見つめる沈黙。沈黙にも声があるのだろうか。何も発しない公園に、今を生きる人々には、ダウンタウン・モールではかき消されてしまいそうな声がある。公園には黒人しか見受けられなかった。子どもが遊べる公園は別の場所にあり、子どももいなかった。実際、ダウンタウン・モールにはホームレスで助けを求める者たちも、多くが身体的特徴から黒人と認識できる。シャーロッツヴィルには、人種的格差が目に見えるようで見えないように存在したと感じた。

h-image3.jpeg

図3 ダウンタウン・モールの南の通り(Water Street)
2つの建物の間のその先にダウンタウン・モールがある

h-image4.jpeg

図4 図3の右側の建物の壁に描かれたプロテスト

h-image5.jpeg

図5 リー将軍のモニュメントが撤去された現在の公園
Lee Park という名称だったが、現在はMarket Street Parkという名称に変更された

 アメリカ合衆国では、奴隷制が合衆国憲法修正第13条で1865年に廃止された後、1896年のプレッシー対ファーガソン裁判で「分離すれど平等」という学校や鉄道などといった公共空間における人種隔離の原則を確立させ、1954年のブラウン対教育委員会事件の判決で覆った。今やレイシズムは「悪」と見なされ、強制的な人種隔離は行われていない。そもそも人種は、啓蒙思想や、優生学運動をはじめとした欧米の近代「科学」により奴隷制と置換するよう19世紀につくられた。現在の科学によれば科学的根拠はなく、人種は存在しない。しかし、存在しないものを前提としたレイシズムを「感じ」させる。そして、その人種をつくり出したのは、紛れもなく歴史である。現在の人びとたちがつくったのではないが、今の人びとがそのレイシズムの過去を無意識/意識的に受け継いで再生産している。しかし同時に、黒人たちの人権の回復を目指す市民権運動(公民権運動)は奴隷制から、第二次トランプ政権の誕生したポスト・BLMとも言える2026年現在まで続いている。

 


3.“GONE BUT NOT FORGOTTEN”

 

 歴史のパズルを作るのは、歴史研究者だけの仕事ではない。ダウンタウン・モールの南側にある落書きの壁は、かつて2017年に極右と抵抗運動が争うなかで車が人びとに衝突して1人が死亡した事件(ユナイテッド・ザ・ライト・ラリー)の現場であった。衝突現場の南側の建物の壁には、「落書き」されて憲法修正第1条のモニュメントよりも肉薄ある「叫び」──“BLACK LIVES MATTER,” “NATIVE LIVES MATTER,” “HOPE,” “CHANGE,” “GONE BUT NOT FORGOTTEN,” “Only racists erase anti-racist messages”──があったのだ(図6)。その場には誰もいないが、8月12日の追悼式の後のろうそくと花、消されることを拒むメッセージだった。
 その歴史的意味を意識することで、モールを中心に南北の出来事がつながり、一つの円を描くように感じられる。具体的には、モールの通りを中心に南側の壁の「叫び」と、北側のリー将軍モニュメント跡の「沈黙」が、視覚的にも心理的にも連動している。この通りを歩くと、モールの光景だけでなく、南北に広がる歴史的痕跡の位置関係が頭の中に地図のように浮かび、壁や公園の声なき声が通り全体の文脈の中で理解されるようになる。「過去」のピースを集めて歴史のパズルを作るのは、歴史研究者だけではない。ダウンタウン・モールの南側の建物の壁の「落書き」のある場所が、車が衝突した場所であるという歴史を認識するとき、北と南が繋がってダウンタウン・モールを中心に円を描いた。まるでスポット・ライトが点いたようだった。そのライトは、最初はダウンタウン・モールに照らされているものだったが、その光の境界線が徐々に開いていった。壁からの叫びと公園の沈黙は、中心部のダウンタウン・モールによって周縁化される。

h-image7.jpeg

図6 図4の壁には“GONE BUT NOT FORGOTTEN”と書かれている

 既存のモニュメントの撤去は、人びとの暮らしをより良くするための景観の変容をもたらそうとした。モニュメントが撤去されたシャーロッツヴィルの公園は、人種隔離の現場のように見えて公園の中の人びとのシェルターになっているのかもしれない。人びとのなかでレイシズムの象徴的なモニュメントの存在を忘れることで癒されるなら、歴史は必要ない。モニュメントがあったことも、撤去も一連の歴史として研究のなかでは語られるが、日常とは切断される。しかし、モニュメントの撤去の議論によって引き起こされた事件を忘れることを拒む人びともいた。
 歴史学者の牧田義也によれば、「歴史実践(historical practice)には、過去の記録史料に依拠して、行為遂行的に現在の現実認識を変容させる働きがある」(牧田 2019)という。私の経験は、過去の記録に頼りながら歩いた歴史実践である。記録史料以外にも、人びとの「声」に耳を澄ました時、現在の現実認識が変容される。
 歴史学の実践を通じて私が強く感じたのは、研究という営みが「過去」と「現在」を単に繋ぎ合わせるものではなく、両者のあいだに緊張と対話を生み出すものである、という点である。史料を収集し、記録を読み解き、過去の事実を再構築するという営みは、一見すれば閉じられた作業に見える。しかし、その作業は常に現代社会の問いかけを背後に抱えており、研究者は知らず知らずのうちに現代の声を伴いながら史料を解釈している。シャーロッツヴィルの街で私が出会った「声」や「沈黙」は、まさにそうした現代の問いを私に突きつけた。歴史学の実践は過去を語ると同時に、現在の社会に照らし返される営みなのである。
 この経験を通じて、私は研究の意義に対する理解を新たにした。研究は個人の自由な探究心に根差すが、その成果は必ず社会との関わりを帯びる。とりわけ歴史学は、現在の社会が抱える問題や不安を映し出す鏡として機能する。史料は単なる過去の遺物ではなく、いまを生きる人びとの解釈や語りによって意味を変える。つまり、歴史研究は「人類共通の知的資産」である以前に、いま・ここで必要とされる声や問いに応えるものであり、その過程で社会と研究は相互に影響し合う。私は現地で人びとの声に出会うことによって、史料と向き合う自らの姿勢が変容する瞬間を体験した。それは牧田義也が言う歴史実践の働きそのものであった。
 研究には、常に「誰のためか」という問いがつきまとう。研究者自身の知的欲求を満たすためだけでは、研究は閉じられてしまう。他方で、社会の役に立つことだけを目的にすれば、研究は即効的な実用性に回収されてしまうだろう。研究にとって重要なのは、この二つの極のあいだで揺れ動きながら、自由と責任の両方を引き受ける姿勢である。シャーロッツヴィルで目にした街の断片や声なき声は、私にその両義性を実感させた。つまり、冒頭でも述べたように研究とは、「個人の自由な探究」であると同時に、「人類や社会に向けられた知的資産」となることを避けられない両極の営みである。
 調査をしている今、私は自らの立ち位置を問い直す必要があるのではないかと考える。史料を収集し解釈する作業にとどまらず、現地で人びとの声を聴き、沈黙を読み取り、それを歴史の語りに取り込むことは、まさにパズルのピースに必要なフレームを整える営みであった。しかしその営みは、自己満足のためのものではなく、他者とともに歩むための道筋でなければならない。研究の場は閉ざされた書斎の机上だけでなく、現実に息づく社会との接点にこそ広がっている。
 歴史研究の目的を一言で定めることはできない。だが、今回の経験を通じて私が学んだのは、研究とは「問いを共有する営み」であるということだ。史料や記録を介して過去を探求する作業は、同時に、いまを生きる人びとと問いを分かち合う契機となる。壁に残された落書きや、跡形もなくなったモニュメントの空白は、研究者にとって史料であると同時に、人びとにとっての声であり、問いである。その声や問いに耳を澄ますとき、研究は単なる知識の蓄積を超えて、社会に働きかける力を持つ。私が歩いたシャーロッツヴィルの街は、歴史研究のこの可能性を鮮やかに示していた。
 結局のところ、「誰のための研究か」、「誰のための歴史か」という果てのない問いを私に投げ返す。その問いに明確な答えを与えることは難しい。だが、その難しさを引き受け、問い続けることこそが研究者の使命である。研究の自由と社会的責任という2つの極を抱え込みながら、私はこれからも歴史学の実践を歩み続けたい。
 今回の調査の合間に、私の研究のパズルのフレームを作り変えることができた。では、私は晴れて啓蒙学者を卒業したものの、開拓者なのではないだろうか。現場は大切だが、アクセシビリティの点や一時的な介入と恒久的な介入にも論点が及ぶ。
誰のための研究なのか。誰のための歴史なのか。その疑問は尽きない。

1) 南部連合はアメリカ合衆国から離脱した州によって結成された。南北戦争時、ヴ
ァージニア州リッチモンドは南部連合の首都であった。

 

参照文献
  • 文部科学省,2002年,「学術研究における評価の在り方について(報告)  1.基本的考え方」,文部科学省,(2026年5月11日, https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/gijyutu/gijyutu4/toushin/attach/1337686.htm).

  • 牧田義也,2019年,「歴史・記録・記憶─歴史実践と路上のアクチュアリティ」『史苑』79巻(2号): 148-163.

© 2026 くにたち歩く学問の会        発行:東京都国立市中2-1 一橋大学大学院社会学研究科赤嶺研究室

bottom of page