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先端課題研究23「〈面白い〉研究の研究──規格不能性と向きあう」ブックトーク
「『内在的多様性批判』をひらく──著者・久保明教さんに聞く」著者によるリプライ

人類学と社会学の再会
──肯定と否定のはざまで

久保 明教
一橋大学大学院社会学研究科 教授

 私は2004年に大学院(大阪大学人間科学研究科)に進学して文化人類学の研究室に所属しているが、同じコースに哲学と社会学の研究室があり、どちらの院生とも読書会や飲み会などで日常的に議論する間柄だった。当時の社会学の教員・院生は西洋哲学や思想史に関わる研究関心を持つ人が多く(例えば一番仲のよかった社会学の院生の研究テーマは「ヘーゲルの市民社会論」だった)、人類学と社会学では目指される研究者像がかなり違うように感じることは多々あったものの、どちらの学問も根っこのところでは西洋近代の哲学・思想史の流れを汲んでおり、だからこそ基礎的な概念や考え方について、意見は合わなくても議論はできるという感覚を持っていた。
 自分が博士課程に進学する前後から、大阪大学の社会学分野は計量社会学者を中心とする陣容に変貌し、仲の良かった社会学の院生も修士課程修了後に大学院をやめた。その後は研究会などで社会学者と議論する機会も少なくなった自分にとって、今回菊谷氏からいただいた拙著へのコメントは、もし当時の社会学の先生にこの本を読んでもらえたならこういうことを言われた気がするという意味で、不思議な懐かしさを感じるものだった。お互いの基本的な前提が違うために意見がすれ違うことは避け難いが、すれ違いと感じられる程度には十分に近しく親しみ深い。その意味で、今回のコメントは、私にとって久方ぶりの社会学(者)との再会だったと言えるだろう。せっかくの機会なので、ここでは菊谷氏のコメントに対して、人類学と社会学のすれ違いの基本的な特徴についての多少の考察を添えながら応答したいと思う。
 菊谷氏のコメントは、まずもって拙著『内在的多様性批判』が、最終章(第7章)において「存在論的転回」論者のある種の行き過ぎを「否定神学的な隘路」と形容し、それを乗り越える道筋を提示する議論を展開しているにもかかわらず、「本書で用いられる論理の形式とその向かう先は、実のところ否定神学のそれである」から論旨が矛盾しているのではないか、という疑義を示すものだと思われる。
 辞書的な定義において、「否定神学」とは、有限の存在でしかない私たち人間が超越的な一者としての神を理解する道筋は、肯定形の表現(「神とは〜である」)ではなく、否定形の表現(「神とは〜ではない)を通じて探求されるべきだとする考え方を意味する。
 拙著第7章における「否定神学的な隘路」という表現は、M・ホルブラッドら「存在論的転回」の提唱者たちが、「他の存在論的転回」と「私たちの存在論的転回」を区別することで自分たちの立場を明確化しようとして、前者を「この世界には何が存在するのか」という伝統的な問いに最終的な解答を与えようとする試みとして一括し、後者を「いかなる現象が民族誌的なフィールドを構成するのか、それらを表現するために人類学的な概念はいかに調整され変形されるべきなのか、といった問いに対してオープンであり続けること」であり、「何らかの存在論を答えとせずに存在論的な問いに取り組むこと」として位置づけたことの帰結に向けたものである。後者の立場は、近代社会に属する研究者にとって自明に見える存在論的な前提(例えば、人間と人間以外の存在は言語や理性や意思の有無という点で明確に区別される)に全く当てはまらないように見える民族誌的な事象(例えば、ある地域の人々においては石のような無機物もある種の人格を持つ)に対して、当の存在論的前提を前提にした記述(「石は人格を持たないが、彼らはそのように解釈している)」を否定形に変換した表現(「石は人格を持つ」)によって記述することを意味する。そのような記述を存在論的な主張として捉えて疑義を唱える論者に対して、「転回」論者たちは「これは存在論的な主張ではなく何らかの有用な結果を生みだすかもしれない発見法的な考え方である」と(何のための発見法なのかという目的を明示することなく)答えることによって対話や議論を打ち切ってしまうとして批判されてきたことは第7章で説明した通りである。
 ここで辞書的な否定神学の定義における「超越的な一者としての神」に対応しているのは「人類学者の研究対象である異文化の人々が生きる世界のあり方」である。ホルブラッドらによれば、それを人類学者が記述するためには、人類学が属する近代社会の側にある(現地における当該事象の理解を許容できないような)存在論的前提を否定形に変換した表現を用いるべきであり、そのような表現は何らかの存在があるという肯定形の主張として理解されてはならない、ということになる。
 こうした立場を「隘路」と表現したのは、ホルブラッドらの立場をとれば「彼ら(異文化の人々)が生きる世界とはいかなるものであるのか」という問いから「私たち(近代社会の人々)が生きる世界とはいかなるものであるのか」という問いが完全に切り離されてしまうからであり(「転回」論者への批判に対して存在論的な主張ではないという返答が繰り返されれば、批判者はいかに納得できなくてもいずれ疑義を挟むのがばからしくなるだろう)、二つの問いが接続されることで私たちの近代的な存在の捉え方が変容する余地がなくなってしまうからである。
 これに対して、拙著が提示した内在的多様性批判を構成する「彼我において異なる仕方で現れる不可知性=可変性(ラトゥールの「プラズマ」とストラザーンの「空隙」を接合したもの)」や「人類学の対象となる根本的に定まった形をもたない存在としての人類=Anthropos」といった──菊谷氏のコメントにおいて内在的多様性批判の否定神学的な特徴を示すものとして挙げられている──要素は、「彼らが生きる世界とはいかなるものであるのか」という問いの探求を「私たちが生きる世界とはいかなるものであるのか」という問いの探求へと接続することによって、私たちが生きる世界のありかたが根本的に変化する可能性を論理的に肯定しうる理路をなすものである。その具体的な成果のうち本書全体を通じて最も明示的に示されるのが、現状の「規範的多様性」(多様性とは何らかの単一の枠組によって統制されるべきものであるという発想)から「多様性の多様性」(多様性を捉える枠組自体が多様であり、それらの互いに異なる枠組を、単一の枠組に還元することなしに、斜方的な比較を通じて接続することは可能だとする発想)」への転換の可能性である。ここには否定形の表現への依拠は一切ない。
 ただし、私は、菊谷氏のコメントが本書に対する単純な誤読に基づいているとは考えていない。というのも、もし「西洋近代が生み出した知識や概念や制度に基づく近代的な社会のあり方が人類の形成しうるあらゆる社会がなるべくしてそこに至る唯一の必然的な社会のあり方だ」という前提にたつのであれば、非近代的な社会のあり方(=異文化の人々が生きる世界のあり方)は論理的にその存在を無視できることになり、彼らが生きる世界と私たちが生きる世界の斜方的な比較を通じて「私たちが生きる世界とはいかなるものであるのか」という問いに既存のものとは異なる解答が生じうる理路を示そうとした本書の議論は、そもそも存在しえないものについての記述、つまり現に存在するものに否定を付した表現を積み重ねて何かに至ろうとする否定神学でしかないことになるからだ(人類学者からみればむしろフィールドワークで経験した世界のあり方を十分に表現しうる語彙が近代的な学問に不足していることが基本的な問題になるわけだが)。そして、このような前提から議論を展開することは──菊谷氏が以上の解釈に同意するかは別にして──社会学という学問分野の哲学的基礎を掘り下げる思考のあり方の一つとしては妥当なものと思われる。
 本書において「近代諸学を、神の地位を部分的に譲り受けた「人間」に関する神学(経験的位相と超越論的位相をつなぐ自然・社会・経済・法・心理などの回路の探求)として捉えれば、人類学者とはたえず神を批判し相対化や更新を試みる異端の神学者だということになるだろう」(p. 46)と記したとき、社会(=国民国家)という回路を通じた「人間」に関する正統派の神学として想定していたのは社会学であり、したがって人類学は(自然科学、経済学、法学、心理学などに対しても同じことは言えるが)特に近代社会を相対化しようとする傾向において社会学の対極をなす異端として位置づけられることになる。神学とみなせるから客観性を持たないという前提は本書では一切とっていない(むしろ科学的な客観性を神学的な真理と同等にシリアスなものとして位置づけている)し、異端とみなせるからといって人類学が近代諸学の一部をなすことを否定するつもりもない。ただ、正統も異端もどっちもあって別によくないですか?というのが正直なところである。
 かつてクロード・レヴィ=ストロースは『社会学と人類学』と題されたマルセル・モースの論文集に寄せた序文において、モースが提示した「全体的社会的事実」という概念を社会学においても人類学においても同様に学知の基礎をなすものとして位置づけている(もちろん現代においてそのような位置づけが健在なのは人類学だけかもしれないが)。二〇世紀中盤には連続的な営為として語ることもできた二つの学問は、人類学が通文化的比較による普遍の解明という主題を次第に手放して(少なくとも分野外に向けて発しうるメッセージとしては)近代批判と相対化に傾き、社会学が近代社会の内部における近代社会の哲学的な批判と基礎づけという主題を次第に手放して既存の社会のあり方を肯定的=実証的(ポジティブ)に解析する方法論の洗練に傾いていくなかで、部分的に近い対象や概念を擁しながらも決して正面から向き合うことのない断絶状態に至ったようにも思われる。しかしながら、社会学において私たちが生きる世界が近代的な社会のあり方ではないこともありうる可能性を探求しうる契機が生じ、人類学において非近代的な世界のあり方への理解が私たちの生きる世界のあり方の変容へとつながる可能性をより深く探求しうる契機が生じ、両者がいずれ結びついていくなかで、この互いに無関心を貫く双生児のような二つの学問が再び出会うことになる可能性もあることは否定できないように思われる。​

​※最終段落の「肯定的=実証的(ポジティブ)」は「肯定的=実証的」に「ポジティブ」がルビ表記、太字の「否定」は原文では傍点。pdf版参照。

© 2026 くにたち歩く学問の会        発行:東京都国立市中2-1 一橋大学大学院社会学研究科赤嶺研究室

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