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2024年度の研究の軌跡
調査

赤嶺 淳
■海外調査

  • 釜山・済州島(5月、韓国) 釜慶大学(釜山広域市)で開催された第7回東北アジア海域と人文ネットワーク国際学術大会「東北アジア海域人文学の過去、現在および未来」に招聘された機会を利用して、済州島における「イルカ問題」の現場を訪問した。2011年から活動しているHot Pink Dolphinsの共同代表であるJo Yakgolさんとは意見を異にするものの、軍港建設反対運動からイルカ問題に関与するようになったというかれの哲学と行動力には共感するものもあり、いずれの機会に再訪したいと考えている。また、下関−釜山は(悲願であった)関釜フェリーを利用する機会にめぐまれ、あらためて日本列島と韓半島が指呼の距離にあることを体感できた。

  • フェロー諸島(7月、デンマーク) フェロー諸島のヒレナガゴンドウ漁については、長期間にわたるフィールドワークにもとづいてRussell Fielding(Coastal Carolina University)やBenedict Singleton(University of Gothenburg)が多数の研究成果を発表している。そのような環境のなか、なにか新しい知見を提示することは新参者のわたしにはむずかしい。しかし、太地のコビレゴンドウ漁との比較はいうまでもなく、ノルウェーとアイスランドの商業捕鯨にグリーンランドの生存捕鯨、フェロー諸島の地域捕鯨を俯瞰することで、「ノルディック海域」における捕鯨のなんたるかが理解でき、ひいては日本における捕鯨業を相対化できるようにも思う。こうした視点であれば、ふたりの著作に学びつつ、わたしも貢献できるはずだ。また、フェロー大学のJóan Pauli Joensenさんをはじめ、Ragnheiður Bogadóttirさん、Elisabeth Skarðhamar Olsenというフェロー諸島出身の研究者にお会いできたことは、今後の関係性の強化につながるものと考えている。フェロー研究では、統計をはじめ、フェロー諸島語で発信されている情報も少なくないなか、ChatGPTによる翻訳に助けられている。以前、ノルウェーにおけるミンククジラ漁についての論文を執筆した際には、残念ながらノルウェー語による先行研究やメディア情報を参照することがかなわなかった。今後はAIという手段を駆使して、ノルウェーの捕鯨についても再検討をくわえていきたい(同時に「AI時代の社会科学」という方法論についても考究していきたい)。

  • バトゥパハ(9月、マレーシア) 香港中文大学を定年退職後、中山大学(広州市)でも教え、故郷にもどってココヤシとアブラヤシの栽培をはじめたTan Cheebeng先生を訪問した。バトゥパハは、金子光晴がパリに向かう途中の1928年に滞在し、愛した街でもある。それから100年ちかくがたつが、マレーシアの典型的な華人の街というのが第一印象であった。それでも郊外でココヤシやアブラヤシを栽培する華人農家の存在は新鮮でもあった。そうした華人の多くが慣習的なコプラ目的ではなく、シンガポールに出荷するためにジュース用に品種改良されたココヤシ栽培に転換できたのは、それなりに資本を有しているからであろう。Cheebeng先生も、そうした華人農家の出身であり、100年以前におじいさんが福建省から移民してきて開墾したらしい。そのおじいさんが植えたという樹齢100年超のドリアンの大木に歴史を感じさせられると同時に、親族で農地をまもってきたTan家の生活にふれる機会を得たことは、あらたなマレーシア体験となった。中秋の名月の時期だったこともあり、香港と広州市での生活経験の長いCheebeng先生が自宅で福建のお茶を楽しむ姿を拝見し、広東と福建の文化的差異の根強さも痛感させられた。

  • ダバオ(10月、フィリピン) 100キロメートル強のダバオ−ジェネラルサントス間の道中に少なくとも4つのコプラ搾油工場が作動中であることを確認できた。ジェネラルサントスの市場には、やし油とパーム油が売られていた。やし油は地元産ということだったが、パーム油の産地は不明であった。やし油が完全に排除されていることなどないと確信していたものの、ココヤシ大国ともいえるフィリピンで想像以上にパーム油が販路を急拡大している様子は、スーパーに並ぶ商品からも一目瞭然であった。やし油とパーム油の棲み分けについて調査する必要性がある。

  • サバ州(11月、マレーシア) サバ州の政府が所有するSawit Kinabalu社は、サバ州に36農園、7搾油所、1製油工場をもつ。そのうち、今回はKota Mardu地区にあるKangkon農場を訪問した。もともとはキャッサバ畑であったものを1970年代からアブラヤシに転換してきたらしい。現在は、サバ州政府の方針のもと、ドリアン、パイナップル、稲の生産も手がけ、経営の多角化を目指している。また小農によるアブラヤシ栽培の事例としてKeningau地区のSook町Mansiat村(46世帯)を訪問した。1996年からアブラヤシの小規模農家による耕作がはじまったということであった。あとで調べたところによると、この時期に道路が整備されたようである。それ以前は、村人もゴムと自給用の稲を栽培するだけで、生活はかなり厳しかったという。ゴムは最低限の加工を村でおこない、川岸まで歩き、そこから河川をくだって出荷していたとのことである。道路の開通にともない、Timbangan Sawitと呼ばれるFFBの仲買が進出した結果、アブラヤシの生産が活性化したものだと察せられる。この点はナマコ類をはじめとする特殊海産物の生産にも通じる点で興味深い。

  • ベルゲン・アバディーン(1月、ノルウェー、スコットランド) ベルゲン大学では同大学准教授の音頭でノルウェー研究評議会に申請するための研究プロジェクト案について相談した。ノルウェー各地の研究者はもとより、英国、氷国、独国からも捕鯨(史)研究者が参加し、刺激的な2日間を過ごすことができた。大学博物館では、19世紀後半にヨーロッパ各地で建設された自然史博物館にベルゲンからナガスクジラやイワシクジラなどの大型鯨類の骨格標本が寄贈されていたことを知り、自然科学の発達におけるノルウェーによる近代捕鯨業の重要性に気づかされた。なお、シロナガスクジラとナガスクジラの両種の骨格標本を展示している自然史博物館は、管見のかぎりでは当館だけだと思う。どちらかの骨格標本を展示するだけでも目玉となりうることなのに、両種を一挙展示するというのはノルウェーならではのことである。アバディーン大学ではIssues in Arctic Food Sovereignty: Japan, Nunavut, Siberia and Scotlandというワークショップで“Whales and traditions: Commercial whaling and culinary heritage in contemporary Japan”という口頭発表をおこなった。捕鯨のみならず、カナダやグリーンランドでイッカクなどの小型鯨類の利用を研究する人びとと交流することで、研究視野を広げることができた。

  • メダン(3月、インドネシア) インドネシア(蘭領東インド)で最初にアブラヤシが移植されたスマトラ島は、かねがねアブラヤシ・プランテーション一色の単調な景観が展開しているとされてきたし、わたしも、そのように考えてきた。しかし、今回、メダンを中心にトバ湖周辺域など北スマトラ地方の一部を歩くことができ、コーヒーとカカオをはじめとする慣習的な換金作物にくわえ、トマトやトウガラシ、キャベツなどの各種多様な野菜が小農によって生産されている実態にふれることができた。それらの野菜群の栽培はメダンという大都市での消費あってのことであるが、ジャカルタやマレーシア(ペナン島?)などにも供給されている様子である。また、キリスト教のバタック人集落では、やや乾燥した斜面においてサトウヤシが(半)栽培されており、ヤシ酒やヤシ砂糖の生産もさかんなことがうかがわれた。帰国前日に調査したメダンのスーパーマーケットにも、やし油とヤシ砂糖、ヤシ醬油(ココ・アミノ)といったココヤシ製品が販売されており、それらのインドネシア国内のサプライチェーンについて調査する必要性を感じさせられた。ヤシ酒については宗教上、一部の人びとしか生産/消費しえないが、やし油やヤシ砂糖は全インドネシア人によって支持されているわけである。それらがアブラヤシやサトウキビから生産されるパーム油と砂糖といかに棲みわけているのかは、興味深い問題である。こうした現象はマレーシアでは見受けられないものだと思うが、それは何故なのか? 


■国内調査

  • 四日市市(8月) ユネスコ無形文化遺産に登録されている鯨船まつり(鳥出神社鯨船行事)を見学した。祭事をつかさどる鳥出神社の喜多嶋敏彦宮司によれば、本神事は遅くとも1781年に奉納されたことが神社内資料に残っているという。かつての捕鯨地域で見られるように海上での祭事ではなく、すべてが陸上で完結する祭事であることから、農業の豊饒を祈願するものだとの説もあるようであるが、祭事を観察するかぎりでは、探鯨から捕獲にいたるまで詳細に古式捕鯨(突取法)を再現したものである。その意味では、捕鯨の記憶を継承したものであると考えられる。しかし、伊勢湾東部の知多半島で捕鯨の記録が多数残されているのに比して、伊勢湾西北部に位置する四日市周辺海域における捕鯨の記録が確認できないのは不可解な現象である。また、芸能史研究の第一人者で元国立歴史民俗博物館助教授、現在、国学院大学客員教授の橋本裕之氏が祭事の手伝いにきており、同氏から宮司としての神主業と民俗学研究者の二重性の経験を聞けたことは、これまで祭事に注意をはらってこなかった自分の研究姿勢をあらためさせるものとなった。富田鯨船保存会連合会の加藤正彦会長とは、後日のインタビューの約束をして別れたが、喜多嶋宮司や加藤会長のようなキーパーソンがあっての鯨船祭りであることを痛感させられた。同祭事は名古屋という三大都市の周辺部で進む地盤沈下に抗する地域おこしの問題としても興味深いものだと思う。

  • 生月・呼子(9月) 古式捕鯨の研究に着手した。長崎県から山口県西部にかけての西海捕鯨地域の古式捕鯨と明治初期の近代捕鯨移行期に関する捕鯨業研究の第一人者である中園成生氏より説明をうけるとともに、同氏が館長をつとめる島の館が所有するボンブランスと捕鯨銃の実物をはじめ各種写真、資料を見せてもらうことで、古式捕鯨時代だけではなく、近代捕鯨業の黎明期に西海捕鯨が果たした役割を理解することができた。呼子の中尾家と平戸の益冨家との関係性、中尾家と2023年に訪問した長崎くんちの「脊美鯨の汐吹」との関係性にまつわる逸話を聞くことで、末田智樹氏のいう「藩際捕鯨」を積極的に評価していくことの重要性に気づかされた。

  • 和歌山市・太地町(11月) 和歌山県立図書館では在野の研究者清水昭氏が1990年代に刊行した紀南地方移民資料集全12冊を閲覧することが目的であったが、個人情報の保護を理由として、目次などごく一部しか閲覧させてもらえなかった。しかし、その一部は、外務省が公開しているものでもあり、和歌山県の過剰な「事なかれ主義」は残念なことであった。「図書館/公文書館」の果たすべき役割をみずから放棄しているにひとしいわけだ。同時に、わたしたちが個人史を再録する際も、作品の開示は当然としても、音声を録音した音源データとトランスクリプションを将来的にどこまで開示するか、その承諾を語り手だけではなく、その家族までふくめて頂戴すべきかどうか、関係者で議論していくべき必要性を感じさせられた。太地町では、海水温度の上昇と黒潮の蛇行により、これまでの知識と経験が使えないという追い込み漁師の意見を耳にする一方で、不振の追い込み漁にかわり、カツオ漁(ケンケン漁)が活発化している現状も知ることができた。

  • 百島・田島・竹原市(2月) 20世紀初頭にはじまった百島と田島からのマニラ湾出漁は、日本人漁民の東南アジア進出の嚆矢ともいえるもので、東南アジア史研究者の早瀬晋三氏と歴史社会学者の武田尚子氏のすぐれた研究がある。両氏の研究であきらかにされていないことは、「なぜ、百島と田島であったのか」という点につきる。また、その問いからは「現在、百島と田島に暮らす人びとが、100年前のマニラ湾出漁の記憶をいかに継承しているか」との問いも派生される。前者については、いまだ不明である。しかし、今回の調査において、百島と田島から漁民を引率した山根与惣兵衛氏の出身地が家船で有名な竹原市忠海町二窓地区であることがわかり、そのこととの関連性を検証する必要があると考えるにいたった。たまたま二窓地区を訪問した2月9日が「新明さん」とよばれる小早川隆景にちなんだお祭りの日で、旧忠海東小学校グランドにつどっていた地域の人びとにマニラ湾出漁に関して話をうかがう機会があった。はっきりしたことは断言できないものの、家船生活者集団ということがマニラへの出漁に向かわせたもの、と現段階では推察している。これから勉強する過程であきらかとなるであろうが、家船居住という生活形態だけではなく、漁場利用などの制限もあったことと察している。なお、百島ではマニラ湾への出漁の記憶は忘却されているか、もしくは秘匿されていることも興味深い。他方、田島ではうつみ市民交流センターに地域史の展示がなされており、そこでマニラ湾出漁に関する展示があったことも発見であった。マニラ出漁の記憶に関してみられる百島と田島の相違が、いかなる事情に由来するのか、考えていきたい。

  • 室戸市・土佐清水市(3月) 高知県における捕鯨業史については、アチック・ミューゼアムの伊豆川淺吉氏による大作『土佐捕鯨史』(1943)で、主要な点はあきらかとなっている。それでも、今回の訪問において、①探鯨/山見の重要性と②津呂組・浮津組が交代で東部漁場(室戸周辺)と西部漁場(足摺岬周辺)を利用したことの地域史的解釈が、土佐湾の東西で異なっている可能性を見いだすことができた。近代捕鯨業において、探鯨は捕鯨の基本中の基本である。他方、古式捕鯨において山見の重要性が指摘されることは少ない。2011年に室戸周辺がUNESCOのジオパークに選定されたことをうけて設立された室戸世界ジオパークセンターで、室戸周辺域の地質学的理解を深めることができた。フィリピン海プレートがユーラシアプレート下に沈降することで隆起した海成段丘が存在することによって、山見の適切な場所/高度が提供されるわけである。日本列島周辺には世界の鯨類の半数ちかくが棲息していたり、黒潮が地先を走っていたりすることだけではなく、この海成段丘の存在こそが、山見を可能とし、捕鯨業の創発に関与したことは、もっと考究されてしかるべきである。このことは、もちろん、太地を擁する紀伊半島にも通じることである。足摺岬の主要基地たる窪津や以布利では、自身が関与する権利を持たなかったことから、捕鯨を文化遺産と考える指向は少ないようにみうけられた。他方、室戸では、捕鯨が文化遺産として捉えられていることは、キラメッセなどにおける展示にもあきらかである。興味深いことは、足摺岬地区の土佐清水などでは、万次郎が漂流し、米国の捕鯨船に救助してもらったこと、万次郎が米国の捕鯨業に従事した史実が捕鯨史との接点となっていることである。その分だけ、室戸と異なり、捕鯨史を日本の開国と重ねて理解しようとする指向性となって具現化し、捕鯨史をより大きな世界史的文脈に定位しているように感じられた。両視点の相違は、土州だけにとどまらず、日本列島における捕鯨史理解にとっても、大きな意味をもつはずである。個人的には足摺岬地域における捕鯨史理解の方向性を深めていきたい。

 

松浦海翔

  • 長野県下水内郡栄村・新潟県中魚沼郡津南町(6月) 「第35回 ブナ林と狩人の会:マタギ・サミット in 信越秋山郷」へ参加し、マタギや狩猟について研究するひとたちと交流したほか、全国から集まった狩猟者に話を聞くことができた。本会で知り合うことができたひとたちとの関係性や、聞き取ることができた狩猟方法の地域性などは、今後の研究に活かしていきたい。

  • 秋田県北秋田市・秋田市(7月、8月、10月〜11月) 北秋田市に位置する調査地にて、7月に実施した調査では、2023年度に生じたツキノワグマの大量出没と駆除の経験についてインタビューをおこなった。8月には、盆踊りをはじめとする年中行事や、集落の伝統芸能の公演会に参加した。10月から11月にかけて約1ヶ月間実施した調査では、クマ猟(忍び猟・巻き狩り)やカモ猟に参加し、参与観察をおこなったほか、キノコ類の採取活動にも同行することができた。また秋田市では、秋田県庁の職員に対して、クマの保護管理に関する政策などについてのインタビューをおこなうことができた。

© 2025 くにたち歩く学問の会        発行:東京都国立市中2-1 一橋大学大学院社会学研究科赤嶺研究室

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