出会い、その先へと歩く
窪園 真那
一橋大学大学院 社会学研究科 博士前期課程1年
2024年度を振り返って、まず想起されるのは、研究対象が変わったことである。学部時代の研究対象は北欧の国際電力市場「Nord Pool」で、エネルギー政策を中心に学んでいた。そこから、「日本のナチュラルチーズ」に対象を転じるきっかけとなったのは、アナ・チンの著書『マツタケ―不確定な時代を生きる術』を読んだこと、そして日本のナチュラルチーズを扱う店主との出会いであった。
学部のゼミナールで、ティム・インゴルドの著書を扱うことがあった。そこで偶然、かれの議論を参照している、アナ・チンの著書に出会った。攪乱された土地に発生する、人間にとって偶然の産物であるマツタケは、資本主義の縁でコントロールされ、高価格で日本に輸入される。マツタケをめぐる妙な商業取引やサプライチェーンは、「資本主義とは何か」を考えるうえで、非常に刺激的な入り口となった。同時に、菌に対する興味が湧き始めた。とくに、「幕間 たどる」で語られた、「菌が世界を構築する偉業」を見つめ直すことは、わたしたちがこれまで理解してきた世界観を揺さぶるようで、深く印象に残った。微生物世界の力に出会ったのだと思う。
同じ頃、祖父母と訪れた山口県立美術館で、大竹亮峯の『祈り』を観た。冬虫夏草をモデルにしたこの木彫作品は、その超絶技巧はさることながら、キノコとセミの共生関係の姿から蠢く菌類の営みが透けて見えるようで、その場から暫く動けなかった。山に分け入り、冬虫夏草を見つけ、いつか食べてみたい──そんな思いがふと芽生えた。
こうした多様な出会いが背中を押し、フィールド調査へ向かった。2024年度は、京都市で日本のナチュラルチーズを扱う小売店を訪れ、店主にインタビューをおこなった。チーズに関わる多様な人々と日常的にやりとりをしている店主ならではの視点で、日本のチーズ産業の内実を丁寧に語っていただいた。
印象的だったのは、「くさい」チーズという言葉に関する話である。日本人がしばしば使うこの表現は、美味しいチーズと同義ではないという指摘を受けた。店主は、腐敗と熟成は異なるもので、「くさい」チーズの多くは劣化したものだと語る。また、たとえばカチョカヴァッロというチーズ一つをとっても、生産される工房によって、その取り扱い方法を変える必要があると教わった。日本の流通では通常、腐敗を防ぐため真空パックが施される。北海道産の有名なカチョカヴァッロもこれに該当する。一方で、熟成期間を要するイタリア産のカチョカヴァッロ・シラーノには、菌が呼吸できない真空パックは不適切であり、菌が死滅してしまうという。こうした二律背反の状況に向き合うなかで、チーズや菌と関わることは、常に例外を包摂する思考の連続であると実感した。
ずぶの素人の私にとってはすべてが新鮮で、何よりも、いただいた日本のナチュラルチーズが本当に美味しかった。他店でもチーズを食べてはいるが、店主自身が国産チーズを見て、食べて、生産者と対話し、選び、客とのやりとりを通じて量り売るものは一味も二味も違う。お店に伺うたびに、「このチーズはね……」と教えてもらうなかで、これほどまでに日本のチーズを愛し、文化を創る人に出会うことができ、チーズを学ぶ者として心から光栄に思う。
一橋に入学してから2ヶ月。はじめて、生産者に対する調査をおこなった。調査を終えて振り返ると、自分の調査の甘さ、勉強不足、視野の狭さなどを思い知り、反省点は枚挙にいとまがない。自分の視点から離れられておらず、調査対象に対する記述も徹底しきれていない。また、日本の近代乳業文化、さらには世界の乳文化・チーズ文化を大局的に捉える視点も欠けており、明らかな勉強不足を感じた。
とはいえ、子どもの感想のようで、かつ楽観的ではあるが、調査は非常に面白く、楽しかった。地域を歩くこと、生産者の声を聞くこと、生活すること、食べること。どれも、文献を読み、頭の中で想像していたものとは全く違う感触があった。この感覚を、研究の初心として忘れずにいたい。そして何より、調査から「すぐれた問い」を立てることにこだわりたい。学部時代から良い問いとは何かを考える訓練は受けてきたが、それを生み出せたという実感はいまだにない。今年度の目標は、より質の高い、徹底した調査・記述を行い、そこから問いを練り上げることである。研究の土台を、自分の手足でしっかりと築く一年にしたい。
参考文献
Tsing, Anna, 2015, The Mushroom at the End of the World: On the Possibility of Life in Capitalist Ruins, NJ: Princeton University Press.(赤嶺淳訳,2019,『マツタケ──不確定な時代を生きる術』みすず書房.)