先端課題研究23「〈面白い〉研究の研究──規格不能性と向きあう」第2回研究会報告の概要と批評
痕跡の不在を歩いて思うこと
──茨城県 日立市でのフィールドワーク経験をもとに
小谷 英里
一橋大学大学院社会学研究科 博士後期課程/日本学術振興会 特別研究員(DC2)
1.これまでの研究会の振り返り
──研究の〈面白さ〉を形づくる〈気迫〉
第一回目の赤嶺報告から得た示唆のひとつは、〈面白い〉研究からは〈気迫〉がにじみ出るということであった。では、〈面白さ〉を形づくる〈気迫〉は、研究者のどのような行為に基づいて生じているのだろうか。以下は、第二回目の鈴木報告、牧田報告、根本報告、第三回目の太田報告、佐藤報告、小泉報告において、それぞれからにじみ出ている(と私が感じた)独特の〈気迫〉の共通点を探り、それが何なのかを考察する試みである。
6名に共通していたのは、目的を遂行するために、なぜ、どのような〈手段〉を採用しているのかについて自覚的であったことである。ここでいう〈手段〉とは、たとえば、学問することそれ自体、依拠する学問分野、研究対象、調査方法、調査において大事にしていることなどが含まれる。〈手段〉にこだわることは必然的に、研究を通じて何を成し遂げようとしているのかという根本的な問いを喚起し、それに対する応答を要請するだろう。だからこそ、6名から切実な問題意識がうかがえたのであり、私はそこに〈気迫〉を感じたのである。
気づけば研究する日々が自明なものになってゆくなかで、一体何のために研究しているのか、なぜ他でもないこの〈手段〉なのかという根本的な問いを忘れかける瞬間が私にはあった。もしこうした問いを根底に据えつつ研究活動を進めることが〈面白さ〉を形づくる〈気迫〉を支えうるのだとすれば、何度でもここに立ち返ることが重要なのではないだろうか。
〈手段〉へのこだわりを支える問題意識は、一人ひとりの経験の積み重ねのなかで醸成されていくのだろう。次節以降では、その中間報告として、私の経験に即した研究ノートを記したい。
2.痕跡の不在への着目
フィールドワークをおこなうとき、私たちは出来事を物語る痕跡に目を向けがちである。他方で、歴史学者の牧田義也は、「歴史・記録・記憶──歴史実践と路上のアクチュアリティ」(2019)において、物理的には消失してしまった過去の痕跡が、記録史料を通じて現在の知覚に介入する現象に着目している。
痕跡の不在において、牧田は記録史料を知覚の枠外から差し込まれる「不在の痕跡」として位置づけ、それらがどのような意味や機能をもつのかを考察した。より具体的には、フィールドワークの参加者らが、記録史料を手にしながら大阪港湾地域を歩くことをどのように経験したのかを論じている。特筆すべきは、従来の記憶論・歴史認識論の多くが記念碑や遺構、展示施設等などの知覚可能な過去の痕跡に注目した一方で、牧田は痕跡の不在に焦点を当てている点である。
牧田によれば、フィールドワークの参加者らは、現在の風景から「過去の痕跡」を探すという課題に取り組んだ。そして、参加者らは、現在の知覚における痕跡の不在に直面していく。1910年代以降に大阪市への沖縄出身者の流入が続いたことによって形成され、「沖縄スラム」と呼ばれた一角の痕跡は、1970年代以降の進行した「開発」事業によって、外形上残されていない。こうした痕跡の不在を確認した参加者らは、記録史料を通じて「沖縄」や「朝鮮」といった記号を挿入されることによって「攪乱され、やがて多元的な解釈の複合によって新たな現実認識へと更新・再編されていく」(牧田 2019:155)。
大阪港湾地域で痕跡の不在を歩く人びとをめぐる記述は、私が茨城県日立市におけるフィールドワークで経験したことを思い起こさせる。本稿の目的は、日立市での出来事を回想しながら、私が痕跡の不在を歩くこと、すなわち現場で生じる「攪乱」とそれにともなう現実認識の「更新」・「再編」をどのように経験したのか、その経験が私にどのような影響を及ぼしたのかを考察することである。この作業を通じて、これまでの研究の歩みを振り返り、今後の方向性について述べたい。
3.痕跡の不在と「不在の痕跡」との往還
2024年5月、私ははじめて茨城県日立市に赴いた。市民運動団体が実施したフィールドワーク企画に参加したのである。その市民運動団体は、韓国で組織化された「朝鮮学校を応援するとともに、韓国社会へ朝鮮学校の存在を知らせていく活動」1)を軸とする市民運動団体「モンダンヨンピル」の日本支部「一般社団法人モンダンヨンピル」の青年支部「モア」であり、「日本に住んでいる韓国・日本・在日同胞青年たち」2)によって構成されている。私は、別の市民運動団体で出会った在日朝鮮人の友人の呼びかけを受けて、1泊2日のフィールドワークに参加することになったのである。
茨城県では、日立鉱山をはじめ常磐鉱山、竜ケ崎の羽田精機工場、七会村の鷹峯マンガン鉱山などに朝鮮人の強制連行・強制労働の記録をみることができる(歴史変纂委員会 2023:8)。私たちがフィールドワークをおこなったのは、日立鉱山に関わるエリアであった。茨城県内に居住している在日朝鮮人の2名の案内を聞きながら、参加者11名が地域を歩いた。
参加者らが連れられたのは、一本杉が印象的な坂道であった。それはなんの変哲もない車道であり、近くには建物はなく、山に囲まれている。その坂道で参加者は、1974年に作成された「茨城日立鉱山朝鮮人強制連行真相調査事業報告者」に載る証言を読んだ。当時の茨城朝鮮学校の生徒が現地を訪れて、「一世同胞達」が「悲惨な事実を涙ながらに語っ」た証言を編んだものである(歴史変纂委員会 2023:10)。茨城県内における朝鮮人の強制連行・強制労働をめぐる記録は多くは残されておらず、それは貴重な資料の一部であった(歴史変纂委員会 2023:10)。証言では、私のすぐ横にそびえ立つ一本杉の下で起きた暴力のありようが語られていた。
私は証言を読み終わり、顔を上げ、その一本杉に目を戻した瞬間の、あの言葉にできない息がつまるような感覚を忘れることができない。収容所のような部屋に詰め込まれ、一帯には鉄条網が張り巡らされ、24時間監視されながら、苛酷な労働を強いられる日々とは、いったいどれほどの苦痛をもたらすものだろうか。あの日、日立鉱山で死ぬのなら死ぬ覚悟で逃げようとした朝鮮人の若者3名は、一体どのような気持ちとともに歩みを進めたのだろうか。一本杉あたりで「日本人」につかまったとき、どれほどの恐怖を感じただろうか。見せしめとして一日中殴られたとき、どんなにつらかっただろうか。かれらはその後どうなったのだろうか。そして、「日本人」は、どのような顔で残虐な行為をおこなったのだろうか。周りの「日本人」は殴られる朝鮮人を一体どのようなまなざしを向けていたのだろうか。私は、目の前の一本杉の風景と証言とを往還するなかで、このようなことに思いを馳せずにはいられなかった。しかし、いくら想像力を働かせたとしても、証言で語られた、あるいは語ることさえはばかられたであろう残虐なありようを頭の中に立ち上げることはできず、そのはかりしれなさを思い知るばかりであった。
4.私の現実認識の「攪乱」と「更新」、「再編」
当時の私は、帝国日本の暴力について調べるなかで、植民地支配という言葉を頻繁に目にするようになっていた。そして、恥ずかしいことに、高校時代に授業で見聞きしたときよりもほんの少しばかりその実態に迫っているような気になっていた。それは、資料や証言、遺跡、展示などの目に見える痕跡に触れてきたからでもあった。しかしながら、この場面は、私のなかにある既存の現実認識が揺れ動いた瞬間でもあった。まさに「攪乱」を経験したのである。
私は痕跡の不在と「不在の痕跡」との往還を通じて、一体どれほどの植民地支配をめぐる痕跡が失われてしまったのだろうかということを考えずにはいられなかった。そして、なんの変哲もないようにみえる一本杉がそうであったように、私たちがなにげなくみている風景には、痕跡の有無にかかわらず、しばしば血塗られた歴史が埋め込まれていることを思い起こさせた。このことは動揺とともに私に内省を迫った。私は研究を通じて植民地支配に触れながらも、犠牲を強いられた人びとの痛みにどれほど目や耳を向けてきたのだろうか。その痛みの理解しえなさについてどれほど真剣に考えてきたのだろうか。高校時代と同じようにしばしば単なる文字として植民地支配を受容してきたのではないだろうか。このような問いが生じたのは、これまでの私が、痕跡としてあらわれない無数の痛みに対してしばしば無自覚であったためである。
また、一本杉の風景と証言との往還は、私の現実認識に関わって、茨城県と植民地支配をむすびつける機能を果たした。私は全国各地で朝鮮人や中国人の強制連行・強制労働がおこなわれたのを文献を通じて知っていた。にもかかわらず、私にとっての茨城県は、日立市に訪問するまで、祖母が住んでいるところというぼんやりとしたイメージにとどまっていた。他方で、フィールドワークでの経験は、そうした私に対して茨城県を理解する新たな解釈枠組みを形成させた。すなわち、茨城県はどのように帝国日本の植民地支配と関わっていたのだろうか、強制連行・強制労働がおこなわれた炭鉱や軍需工場はどのあたりに位置していたのだろうか、祖母が住む神栖市はどのように関係しているのだろうかという問いとともに、これまでとは異なる茨城県の見え方が浮かび上がってきたのである。加えて、「更新」された茨城県の見え方は、のっぺりとしていた私の強制連行・強制労働をめぐる認識を、より揺さぶりをもたらすものとして「再編」させたのである。
5.「攪乱」がもたらしたもの
私は植民地主義と向きあう人びとに関心を寄せ、長崎市をフィールドとして調査研究をおこなっている。より具体的には、朝鮮人や中国人の被爆や強制連行・強制労働に関する聞き書きや伝承、遺跡の保存、追悼、補償要求に取り組んできた人びとの生活史の聞き取りを実施してきた。とりわけ、差別にさらされずに済んできた、出自を気にせずに済んできた、声を上げずに済んできたポジショナリティから実践する人びとの自己形成のプロセスに迫ろうとしてきた。
茨城県日立市での経験は、私の主たるフィールドである長崎市の捉え方や調査の方向性に影響を及ぼした。第一に、私が長崎市というフィールドに惹かれた背景について改めて考える契機となった。長崎市では、全国各地の多くの地域と同じように植民市支配や強制連行・強制労働をめぐる聞き書きや伝承、遺跡の保存、追悼、補償要求をおこなう取り組みが組織化されていた。そのため、証言集や遺跡、追悼碑、記録といった痕跡が比較的多く残されている。他方で、とりわけ長崎市において特徴的であったのは、日本の侵略戦争や植民地支配をめぐる「加害の歴史」を伝える資料館が1995年から草の根によって設立・運営されている点である。1990年以降、公立の資料館において「加害の歴史」の展示がしばしば困難になるなかで(山根 2003:6-7)、とりわけ2000年以降に各地でこうした草の根による資料館が設立されるようになった。そうしたなかで、長崎人権平和資料館3)は先駆的な事例のひとつであった。つまり、私はフィールドを選択するにあたって、とりわけ目に見える痕跡の多い地域に焦点化していたのである。証言や追悼碑、資料館などの痕跡は、それらを残すために働きかけた人びとの存在をも示しているのであり、そうした人びとのありようが私の関心の的だったのである。
第二に、残された痕跡に注目して選択した長崎市というフィールドであったものの、失われた、あるいは現れることがなかった痕跡が数多くあるという事実に目を向けるようになった。すなわち、残された痕跡が、未知なる全体のうちのほんの一部であるのを意識し、沈黙のなかに埋もれていった無数の出来事や人びとの存在に思いを巡らせる試みである。しかしながら、沈黙のなかに埋もれていった出来事や人びとについて考えることは、様々困難をともなうものでもある。当然ながら街を歩いていてもそのありようは浮かび上がってこないうえに、「不在の痕跡」としての史料が誰かから与えられるわけでもない。その一端を浮かび上がらせるためには、わずかな手がかりから痕跡の不在を問題化するための「不在の痕跡」を探し出さなければならない。では、どのようにしたら「不在の痕跡」の一端に出合うことができるのだろうか。
これに対する解を得るためには、その模索を続けてきた歴史学から学ぶ必要があるように思われる。さしあたり私の問題関心に即して進められる試みを考えるならば、以下を挙げることができる。すなわち、痕跡の不在をめぐる語りに目を向けることである。
たとえば、私が生活史4)を聞き取った晶子さん5)(80代・仮名)の語った三つのエピソードは、それぞれ異なる視点から「不在の痕跡」を担っている。一つめに、現在は残されていない遺跡をめぐる「不在の痕跡」である。晶子さんは遺跡の保存運動に参加した経験について話し、どのような言説状況のなかで植民地支配を物語る遺跡の保存が困難になったのかを語った。このエピソードは、現在の痕跡の不在の生成過程を示すものであった。二つめに、死者をめぐる「不在の痕跡」である。晶子さんは、長崎市で工事があるたびに現場に赴き、遺骨を探してまわった経験について語った。そして、あるとき遺骨を見つけて行政に工事の中断を要請したものの、工事は続行されたという。このように復興という名のもとに原爆の被害に遭った死者の存在が踏みにじらる実態は、晶子さんの記憶に埋め込まれているにとどまり、しばしば文字媒体としては残りにくいものだったのである。三つめに、具体的な生に関する「不在の痕跡」である。晶子さんは、今は亡き朝鮮人被爆者のひとりである徐正雨6)さんと交流した経験について語った。そこからみえてきたのは、徐正雨さんが提供した証言からは浮かび上がってこない、晶子さんの目線から立ち上がる彼の生の姿である。つまり、証言それ自体のみならず、その周りを生きていた人びとの語りからも、ある人物の生のありようをみることができるのである。これらの「不在の痕跡」は、痕跡の不在のほんの一部を物語っているに過ぎないだろう。それでもなお、痕跡の不在をめぐる語りは、植民地支配に対する理解しえなさ、その残虐性のはかりしれなさ、語り継ぐことの難しさを私に突きつけ続ける。
茨城県日立市を訪問して以降、私は主たる研究フィールドである長崎市への訪問を見送り、全国各地を巡るようになった。より具体的には、北海道、群馬、茨城、神奈川、東京、長野、京都、滋賀、大阪、兵庫、岡山、広島、山口、愛媛、福岡、大分に赴いた。なにが私を突き動かしていたのかは分からない。だが、各地をみてまわる、すなわち身体で感じながら各地と植民地支配をむすびつける作業を抜きにして、私の主たるフィールドである長崎市と対峙することができないように思われたのである。つまり、より多くの「攪乱」を経験する必要があるように感じていたのである。現在も道半ばで、各地を巡る歩みが私の研究にどのような意味をもたらすのかは未知数である。これまでの経験を踏まえて言えることがあるとするならば、まず、より厚みを増して痕跡、ならび痕跡の不在が浮かび上がったきたということである。また、とりわけ「不在の痕跡」の発見は、多くの人びととの偶然を含む出会いによって導かれたことである。そして、各地における様々な人びととの関わり合いを通じて、この現象はどのように理解できるのだろうか、長崎市ではどうだろうかという幾つもの宿題を抱えて帰路につくことになった。
こうした調査の歩みは、ある種の効率性が求められる学術界における傾向(根本 2024:5-6)とはしばしば相容れない作業であるかもしれない。実際、各地を巡っている間に論文などの成果をあげることはできなかった。ひょっとしたら、各地を巡らずとも長崎市をフィールドに据えつつ、研究を進めることができたのかもしれない。他方で、社会学者の根本雅也は、調査過程における〈出会い〉と〈対話〉の積み重ねが、ときに新しい問いを生成させながら「質的調査に命を吹き込む重要な要素」であるという(根本 2025:54)7)。ここでいう〈出会い〉とは、具体的にはインタビュイー・調査対象者との出会いを指し、衝撃をともなうものである。〈対話〉は、そうした対象者との〈出会い〉を、悩みながらも、なんとか理解しようとするプロセスである(根本 2025:33)。より具体的には、〈対話〉とは、「調査対象への直接のインタビューだけではなく、その語り・データとの対話、語りやデータをもとに自身の考え方や立場を問い直す対話、自身の調査を記述し伝えるという読者との対話を含んでいる」(根本 2025:33)。私は今、本稿の執筆を契機として各地で出会った人びとの語りや風景との〈対話〉を始めたばかりである。もし質的調査における偶然の〈出会い〉とその理解を試みる調査者の〈対話〉が、「調査を展開する動力源」となり、「調査者の視点と思考を拓く契機となる」(根本 2025:33)のだとするならば、各地を巡った日々が、長崎市で調査研究を深めるための礎となると信じたい。
6.おわりに
この文章を執筆しているのは、とりわけ排外主義と歴史修正主義の広がりとともに差別と分断の煽りが目立った2025年7月の参議院選挙の最中である。本稿では、痕跡の不在と「不在の痕跡」に着目してきたものの、痕跡がしばしば無きものとして扱われる、あるいは否定にさらされる日本社会のありようにも心をとめたい。
付記
本稿の執筆にあたり、フィールドワークの機会を与えてくださった市民運動団体「モア」の方々、現地でご案内くださった方々、インタビューに協力してくださった方々、長崎市での滞在を支援してくださった方々に心よりお礼申し上げたい。
註
1) モンダンヨンピル, 2025, モンダンヨンピルホームページ(2025年7月20日取得, http://www.mongdang.org/jp/bbs/content.php?co_id=page01)
2) 2024年5月18日フィールドノートより。
3) 設立時の館名は「岡まさはる記念長崎平和資料館」である。同館は2023年、岡正治(1918-1994)の生前の「性暴力」を公表するとともに、館名変更をおこなった。詳細な経緯については同館のホームページを参照されたい。
4) 筆者は、2022年11月から2024年8月のあいだの約70日、長崎市内を中心に調査を実施した。資料館のボランティアや会員、その家族を含む12名に対する聞き取りや参与観察を実施したほか、行政文書・新聞記事・市民活動団体の発行物・インタビュー協力者の手記やメモなどの文書資料を収集した。インタビューは、一回につき1~3時間程度おこなった。本稿では協力者の安全性を考慮して仮名とした。
5) 晶子さんへのインタビューは、2023年7月31日に実施したものである。
6) 徐正雨は、市民運動団体「長崎在日朝鮮人の人権を守る会」の実態調査によって、1983年に証言を提供し、インタビュー協力者と深い親交があった人物である。徐正雨は14歳で朝鮮から日本へ強制連行され、端島(軍艦島)の海底炭鉱における強制労働を経験した。加えて、三菱造船所で被爆し、負傷した身体で廃墟の復旧作業に従事させられ、解放後は栄養失調から結核を患い、入退院を繰り返したのであった。修学旅行生を前に講話をおこなうなど様々な活動に尽力し、暴力と差別の非人道性を訴え続けた(長崎県被爆二世教職員の会ほか 2002)。
7) 念校の時点での頁であるため、出版時の頁と異なる可能性がある。
参考文献
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牧田義也,2019,「歴史・記録・記憶─歴史実践と路上のアクチュアリティ」『史苑』79:148-163.
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モンダンヨンピル,2025,モンダンヨンピルホームページ(2025年7月20日取得,http://www.mongdang.org/jp/bbs/content.php?co_id=page01)
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長崎県被爆二世教職員の会・長崎在日朝鮮人の人権を守る会・岡まさはる記念長崎平和資料館,2002,『追悼 徐正雨さん─その誇り高き人生』.
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根本雅也,2024,「理想と現実のはざまで思い切りあがくために─『面白くて刺激的な論文のため のリサーチ・クエスチョンの作り方と育て方』から考える」(書評)
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───,2025,「調査が動き出す」有末賢・小倉康嗣・松尾浩一郎編『社会学的質的調査の挑戦─〈出会い〉と〈対話〉の社会調査論』図書出版みぎわ(近刊),31-57(予定).
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NPO法人長崎人権平和資料館,2025,NPO法人長崎人権平和資料館ホームページ(2024年7月20日取得,https://www.nagasakijinkenheiwa.com/).
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歴史変纂委員会編,2023,『茨城における在日朝鮮人の歩み 改訂版』歴史変纂委員会.
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山根和代,2003,「平和博物館、平和博物館建設運動の現状と課題」『立命館平和研究』4:3-14.