先端課題研究23「〈面白い〉研究の研究──規格不能性と向きあう」第2回研究会報告の概要と批評
〈面白い〉研究の「手触り」を求めて
─ ─人生に、データに、地図に触れる
永山 理穂
一橋大学大学院 社会学研究科 博士後期課程
一橋大学社会学研究科の先端課題研究23「〈面白い〉研究の研究─規格不能性と向きあう」の第3回目の研究会が開催された。本プロジェクトは、ノンスケーラビリティ概念を軸に「〈面白い〉研究とは何か」を多角的に探求することを目的としている。今回の研究会でも、それぞれの専門や方法論を背景にした魅力あふれる報告が行われ、研究の〈面白さ〉をめぐって活発な議論が展開された。
1.人間形成と社会形成のノンスケーラブルな関係……太田美幸
第一報告者の太田美幸は、「人間形成と社会形成のノンスケーラブルな関係──教育社会学をはみでる〈教育と社会〉研究」と題して報告を行った。報告は太田が自身の研究テーマに至った個人的な体験談から始まった。高校生のとき、身近な人が交通事故で亡くなったことがきっかけとなり、社会や教育に対して強い不信感や疑問を抱くようになったという。一橋大学社会学部で教育社会学を学んだ後、損害保険会社に4年間勤務し、再び研究の世界に戻った。太田の研究活動は既存の教育社会学という枠に収まらず、多岐にわたるテーマを追求してきた。太田自身は、この「収まらなさ」は、すべて自分の中の問題意識から生まれたものであり、多様なテーマが重なり合うところに自身の研究の核心があると述べる。
太田は、教育は人間をより良い方向へ導くものであるという「目的的規定」を重視する教育学、および教育は既存社会のありようによって条件づけられているという「社会的規定」を重視する教育社会学のいずれも、人間形成の多様で豊かなプロセスを捉えるには十分でないとみなし、自分自身が注目しているのは、個人が社会からの圧力に抵抗し、自分らしい生き方を模索していく人間形成の営みだと述べた。それゆえに、太田は、学校教育や学力といった数値的評価ばかりに注目しがちな教育研究には面白さを感じないという。特にOECDのPISA調査を例に挙げ、ランキングや点数をもとに教育の成果を測ろうとする教育政策やそれに関する研究のもとで、生きることの複雑さや面白さに目を向けることが軽視されていると指摘した。
太田が目指す「自己形成」研究の〈面白さ〉とは、従来の教育学/教育社会学の枠組みを超え、人間が生涯を通じて社会的環境に働きかけながら、自分にとって望ましい生活や生き方を主体的に組み立て直していくプロセスを捉えるところにある。すなわち、制度的な枠組みを問い直しながら、社会からの規定に対して個人がどのように抵抗し、新たな生き方を創造していくのかを明らかにすることを通じて、従来の教育学/教育社会学を乗り越える視座を太田は示している。
2.世界Large-N症候群……佐藤圭一
第二報告者の佐藤圭一は、「世界Large-N症候群──『面白い研究』と調査対象の『手触り』」というテーマで報告を行った。佐藤は、自身の専門である量的研究を題材にして、どのような研究が〈面白くない〉と感じられるのかを明らかにし、そこから逆に〈面白い〉研究とは何かを考察した。
佐藤によれば、〈面白さ〉という感覚は個人によって異なるが、〈面白くない〉研究にはある種の共通点が存在するという。それらは、細かな点にこだわりすぎる「ギャップスポッティング」(重箱の隅をつつくような小さな革新)、同じパターンの繰り返し、あるいは研究者自身の熱量の不足によって生まれる単調な解釈などである。このように、〈面白くない〉研究に対して一定の共通認識を持つことが可能であると指摘した。
佐藤はまた、量的研究そのものが本来つまらないわけではないことを強調した。実際に、社会学史においてはデュルケムやジンメルなど、計量的手法・数理的発想を駆使して常識を覆した革新的研究が存在したからである。現在の量的研究が〈面白くない〉とされがちなのは、研究手法や研究者個人の問題というよりも、量的研究を取り巻く「Large-Nシステム」の構造的な問題に起因しているという。
佐藤の指摘する「Large-Nシステム」とは、大規模なサンプル(N)を使った研究が主流化し、研究資金が巨大化している状況を指す。特に欧米などでは、大規模な研究資金を得た研究者が調査会社にデータ収集を外注し、自らはマネジメントに専念するスタイルが一般的になっている。結果的に研究者自身がデータ収集に直接関与することが減り、データ生成の過程から遠ざかってしまう。また、論文数や引用数といった量的評価基準が研究成果の評価軸となっているため、大量のデータを扱うことが研究上の優位性を持つようになっている。このような構造的変化が、研究対象との距離を広げ、「手触り」を失わせる要因となっている。
佐藤は、「手触り」の喪失こそが、量的研究から〈面白さ〉やひらめきを奪っていると強調した。実際に自ら調査を行い、データ収集過程に直接関わることでしか得られない洞察や気づきが研究を豊かにすると主張する。自身の経験からも、例えば脱原発運動や気候変動政策に関する研究を通じて、現場を直接知ることによるひらめきが重要であると述べた。
最後に佐藤は、Large-Nシステムへの抵抗策を具体的に提示した。データの一部を自ら収集してみる、典型事例や例外的な事例を深く掘り下げる、ケースを単に変数として扱うのではなく、そのケースごとのストーリーを丁寧に見る、さらには社会運動や関連する現場のイベントを訪れるなどの方法で、量的研究においても対象への「手触り」を取り戻すことが可能であると指摘した。佐藤は、量的研究に本来伴う曖昧さや「怪しさ」をむしろ積極的に引き受けることで、量的研究が社会の常識を問い直すような〈面白さ〉を再び得られると結論づけた。
3.地図の〈面白さ〉……小泉佑介
第三報告者の小泉佑介は、「地図の〈面白さ〉──地図をよむ、地図を描く、地図とともに歩く」と題し、自らの経験を交えながら、地理学の〈面白さ〉を語った。小泉はまず、自身のキャリアを振り返った。大学時代に東南アジア、とりわけインドネシアに魅せられ、当初は研究者になるつもりはなかったものの、次第に地理学の視点に惹かれ、現在の専門分野に至ったという。
報告の中心は、地図という媒体が持つ〈面白さ〉についてであった。地図は一見シンプルに見えるが、その作成には膨大で緻密な作業が必要である。小泉は具体的な事例として、関東大震災後の東京の人口移動を描いた地図を紹介した。統計データをデジタル化し、古地図に一つ一つ落とし込む作業は途方もなく地道であるが、だからこそそこから新たな社会的現象が鮮明に浮かび上がる。このプロセスこそが、地図を作る最大の醍醐味であると述べた。また、小泉は、地図が持つ視覚効果とその危険性についても言及した。大阪都構想の投票結果を地図化した例を示し、地図の色の使い方や区分方法一つで現象が実際以上に誇張されてしまう可能性があると指摘した。このように地図は常に批判的に読み解く必要があり、その作成にも繊細な判断とリテラシーが求められると強調した。
報告の後半では、小泉が最近取り組んだ研究として、ジャカルタ周辺の都市化プロセスを示したアトラスを紹介した。インドネシアの基礎自治体レベルで、街灯の整備状況や燃料利用状況、村長の学歴の変化など、多様な社会経済データを地図化したものである。この作業を通じてフィールド調査だけでは決して見えない特異な現象や地域性が浮かび上がり、例えば、特定の村に靴職人が集中するなどの興味深い発見につながった。さらにこのアトラス制作では、地図を専門としない人類学者や社会学者、デザイナーなど他分野の研究者と協力したことで、より〈面白い〉発想が生まれたことを報告した。特にデザイナーが提案した「色に意味を持たせない配色」という発想は、地図作成の常識を覆す新鮮な試みであり、こうした異分野の視点を取り入れることが、地図の〈面白さ〉をさらに深めたと述べた。
最後に小泉は、地図の本質的な〈面白さ〉は、深夜まで延々と地図を作り続けることに熱中するような、他者にはなかなか共有しにくい個人的な楽しさにもあると語った。スケーラブルとノンスケーラブルの両面を含んだ地図そのものに、地理学の真の魅力があると締めくくった。
4.それぞれの〈問い〉とどう向き合うか──質疑応答を通して
報告後には活発な質疑応答が行われた。太田には、「教育の社会的規定と個人の自己形成の関係性をどのように整理しているのか?」という質問があった。太田は、人は教育や社会化を通じて社会的に望ましいとされる価値観を内面化するが、それに対して抵抗し、自分自身にとって望ましいあり方を再構築することが可能だと回答した。特に太田は、成人以降も継続的に行われる自己形成に注目しており、個人が主体的に社会環境との関係を組み替えていくことが重要だと述べた。
佐藤には、「量的研究において、数字の分析と現場の感覚的な『手触り』を両立させることは可能なのか?」という質問がなされた。佐藤はこれに対し、完全な両立は難しいとしつつも、現場を熟知した研究者が量的データを扱うことで、単に数値を操作するだけでは得られない解釈や気づきが得られると答えた。つまり、データの背後にある文脈を理解することで、量的研究はより深い意義を持ちうると指摘した。
最後に小泉には、「ジャカルタに関する地図をみんなで作成し並べるワークショップを行った際、何に〈面白い〉と感じたのか?」という質問が寄せられた。小泉は、多様な分野の研究者がジャカルタのデータを地図に落とし込む試みを行う中で、予期しないパターンや発見が現れたことが面白かったと回答した。さらに、「なぜ地理学者は必ず現場調査に行くことを重視するのか?」という問いには、地理学者にとって現場調査は単なるデータ収集を超え、そこでしか得られない「手触り」や感覚が重要であり、それらが研究の核心にあると述べた。
5.人生、データ、地図の「手触り」から浮かび上がる
〈面白い〉研究の輪郭
以下、執筆者の感想を示す。太田の報告からは、既存の体制への抵抗の可能性に真正面から取り組む熱意が強く感じられ、大変感銘を受けた。特に印象的だったのは、イリイチの『脱学校の社会』の一節「われわれが知っていることの大部分は、われわれが学校の外で学習したものである」を引用し、制度化された教育学/教育社会学の限界とインフォーマルな学びへの着目の重要性を示されたことである。太田は「人間の能力は本来規格化されるものではない」と指摘したが、この言葉通り、一人ひとりの可能性や才能は画一的な基準には収まりきらないノンスケーラブルなものである。こうした視点を踏まえ、既成の枠組みに違和感を覚えたら徹底的に向き合うべきだという太田のスタンスには非常に共感した。「やりたいことやなりたい職業が多すぎる」と生き生きと語る太田からは、研究や人生に対するポジティブな姿勢が感じられ、聞いていて勇気をもらえるような報告であった。
佐藤の報告は、興味深い論点が多く提起され、大変刺激的であった。特に「Large-Nシステムにどう抵抗するか」という問いを掲げ、その解決策を模索している姿勢に感銘を受けた。佐藤が提起した解決策はいずれも、大量のデータに埋もれて見失われがちな対象の「手触り」を取り戻すための取り組みである。このようなアプローチは、ミルズによる「抽象化された経験主義」への批判とも響き合うように思われる。ミルズは、大規模な統計調査に没頭しすぎると分析自体が形式的で中身のない巧妙さ─いわば概念へのフェティシズムに陥り、社会や人間について大して学べなくなってしまうと指摘している。佐藤の提起するアプローチはまさにこのような弊害への処方箋と言える。データの背後にある物語や文脈に目を配ることで、数値分析に理論的・歴史的な意味づけを取り戻し、分析結果に厚みと〈面白さ〉が加わるだろう。量的手法と質的洞察の架橋とも言える佐藤の提起は、社会調査のあり方を再考する上で非常に示唆に富んでおり、私自身大いに刺激を受けた。
小泉の報告もまた、研究会のテーマと響き合う刺激的な論点が多く示され、地図の魅力が存分に伝わってきた。とりわけ印象に残ったのは、「新しいテクノロジーが登場したからといって、それがすぐさま社会科学の〈面白い〉研究に直結するわけではない」という指摘である。社会科学の領域では近年、ビッグデータ分析など最新技術を導入する研究が盛んであるが、その導入自体が研究の質や面白さを保証するわけではない。小泉の主張は、最新技術を無批判に採用する傾向に対する警鐘であり、私自身も強く共感を覚えた。今日、デジタル技術を用いれば誰でも容易に美しい地図を作成できるが、小泉はむしろ地図作成のプロセスに伴う複雑さや困難な作業こそが重要であり、そこから研究上の新たな洞察や発見が生まれると主張した。「地図の魅力は腱鞘炎になって初めて分かる」というフレーズが特に心に残っている。報告全体を通して地理学や地図への熱量がひしひしと感じられ、「私も地図を作ってみたい!」と思わせるような報告であった。
総括すると、太田・佐藤・小泉それぞれの報告を通じて、〈面白い〉研究とは、研究対象との「手触り」を大切にしながら、既存の常識やシステムを批判的に問い直すことから生まれるのだということを実感した。太田のように違和感や困難に正面から向き合い、教育そのものや教育学の枠組みに挑戦する姿勢、佐藤の提起するデータの背後にある埋もれた物語を丁寧に掬い上げる工夫、そして小泉のように地図作成のプロセスそのものに身体的に関わること─これらはいずれも、社会科学の研究に「手触り」を取り戻し、研究をより〈面白い〉ものにするための重要な指針となるだろう。研究対象に直接触れ、その質感を感じ取ることで初めて見えてくる世界があり、それこそが規格化に抵抗しながら、社会科学を豊かにしていくのだと強く感じた。
6.「手触り」から社会科学の〈面白さ〉を捉えなおす
最後に、私自身の研究に引き付けて考えたことを記したい。私にとって研究における「手触り」とは、フィールドで経験ないし空間を共有しなければ気づけなかった違和感、あるいは語られた言葉の奥に沈む感情のざらつきに、文字通り触れるような経験である。私は約3年間、化粧品メーカーで美容部員アルバイトとして働きながら、店舗での接客・朝礼・休憩中の雑談・研修・異動の場面などを観察し続け、同時にインタビュー調査も重ねてきた。
インタビューでは、「お客様に信頼されるには、清潔感と華やかさが必要」「どんな日でも笑顔を崩せない」といった語りが繰り返し語られる。こうした言葉は、美容部員という職業において求められるふるまいや意識を端的に表しているように見える。だが、実際に売場に立ち、日々の業務をともにするなかで、こうした語りが常に自信や納得を伴って発されているわけではないことに気づかされる。たとえばある日、月末の売上に追われるなか、同僚がバックヤードでファンデーションを塗り直しながら「今日は顔色が悪くて、お客様の前に出るのがちょっとつらい」と呟いた。その後、彼女は鏡に向かって小さく深呼吸し、いつも通りの表情を作って売場に戻っていった。その姿には、決められたルールに従っているというより、自分をなんとか整えて接客に立つための、日々の微細な調整と気持ちの切り替えがにじんでいた。
このような場面に立ち会うことで、インタビューで語られた言葉が、あらかじめ意味の定まった正解としてではなく、その都度、自分の状態と向き合いながら紡ぎ出された言葉として聞こえてくるようになる。そこには、美の規範にただ従っているのでも、抗っているのでもない、評価に晒される現場で自分の居場所を確保しながら働き続けるための継続的な試行錯誤があった。「手触り」とは、まさにこのような語りと行動のあいだにあるずれや、その背後にある逡巡や感情に調査者自身が巻き込まれながら応答していく過程で得られるものであると思う。現場で生じる違和感に立ち止まりながら、その都度、問いを立て直すことを試みること──それこそが、私にとって社会調査の醍醐味であり、社会学の〈面白さ〉が立ち上がる場所である。