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先端課題研究23「〈面白い〉研究の研究──規格不能性と向きあう」第2回研究会報告の概要と批評
研究の〈面白さ〉はどこにあるか?
──〈フィールド〉での経験から考える

松浦 海翔
一橋大学大学院社会学研究科 博士後期課程/日本学術振興会 特別研究員(DC1)

 本研究会は、科学研究費挑戦的研究(萌芽)「ノンスケーラビリティ再考──不安定で不確定な現代社会に資する人文社会学の構築」(24K21385)の一環として企画されたものである。
 第2回研究会は、2025年5月21日(水)の15時から、マーキュリータワー5階3509教室で開催された。今回の研究会では、はじめに、参加していた出版社の方が紹介され、そのあとで鈴木直樹、牧田義也、根本雅也の3名が研究報告をおこなった。
 今回の3名の報告において共通していたのは、研究の〈面白さ〉はどのような点に見出せるのかについて、それぞれがこれまでの研究や実践、あるいは経験にそくして議論していた点である。本稿では、3名の報告と質疑応答の内容について簡潔にまとめたうえで、議論の内容と筆者自身の経験とを引きつけつつ批評したい。

 
1.〈面白い〉研究の研究への第一歩……鈴木直樹

 鈴木の報告では、歴史研究に興味関心を抱くようになったきっかけや、その後の研究について、また、あたらしい技術を用いた未来の歴史研究の展望と、〈面白い〉研究が生まれる可能性について取り上げられていた。

研究のあゆみと現在

 はじめに鈴木は、研究を志す、あるいは歴史に興味をもつきっかけとなった個人的な経験について語っていた。「日本」の「近世村落史・地域史」研究を志した背景には、小学校の図書館で『人物日本の歴史 源頼朝』を読んだことがあるという。その後、戦国大名の研究をしようと思い、大学に進学したが、結果として江戸時代の百姓のライフサイクルを研究する基礎ゼミに入ることになる。そこで近世村落史研究の面白さ──名もなき人びとの生き様が、生々しく残っていること──を知り、そのような研究へと進んでいくことになったと述べていた。
 近世村落史・地域史の研究において重要になるのは、古文書の読解を通して村落社会の構造を分析することであるという。具体的には、①村政運営の状況、②村の経済状況、③村落内部の社会関係が分析される。また、古文書の読解から、当時の生活がどのようなものであったかについても迫れるという。
 鈴木の現在の研究は、おもに南関東を対象としたものである。そのなかで、研究対象時期を3つに区切って、その時期の特色がもっとも現れる事柄に注目して分析しているという。時代区分とそれぞれのテーマとしては、①中世近世移行期・近世前期(16世紀末〜17世紀):北条氏滅亡後、土豪とその子孫がどのように生き残っていったか、②近世中後期(18世紀〜19世紀前半):自然災害と社会との相互関係の検討、③幕末期から明治前期(19世紀):支配から行政への転換であると説明されていた。

 

未来の歴史研究──他分野とのコラボレーションにむけて

 鈴木のこれまでの研究内容の説明をふまえて、未来の歴史研究はどのような様相をみせるのか、その展望についても報告された。近年では、たとえばTOPPAN株式会社(旧:凸版印刷株式会社)が開発した「古文書カメラ」などを使用することにより、AIを活用した古文書の読解が可能になっている。また、GISを活用して、現在の地図と過去の地図を重ねて表示することができるようになったり、データ駆動型人文学とよばれる、所蔵している資料をデータ化し、それを活用した研究をしてもらおうとする動きもあるという。
 たしかに、こうした新技術は、あらたな研究を可能にするものかもしれない。しかしながら、資料の読解をとおして単になにかが明らかになったということを述べるだけではなく、その歴史的な意義を示す必要があると、鈴木は主張する。そのためにも、他分野とのコラボレーションに可能性を見出せるところがあるというが、それは1歩踏み出すだけではなく、2歩踏み出す勇気が必要なものかもしれないという。ただ、そこにこそ〈面白い〉研究の種が生まれてくるのではないかと述べていた。

 


2.Nonscalabilityと歴史実践
   ──アート・地域・歴史学の交差……牧田義也

 

 牧田の報告では、ノンスケーラビリティと歴史実践としてのアートについて取り上げられた。牧田の研究を大別すると、①ニューヨークの社会史、②赤十字の人道支援に関するグローバルヒストリー、③歴史実践としての芸術実践、の3つがあるという。そのなかでも、研究会のキーワードとなっている「ノンスケーラビリティ」という観点から考えたとき、もっとも近いテーマはアートであると述べる。

ノンスケーラブルなものとしてのアート

 牧田は、かれがおこなっているアートに関連したプロジェクトを、歴史実践とする。その背景には、現代アートと歴史学が近年接近している事態があるという。ただし、そこにあるのは、最終的に論文としてまとめるのか、アートとしてまとめるのかという違いのみであり、牧田は近年、論文以外での研究成果の発信について考えていると述べていた。
 現代アートが社会的課題への応答を志向するようになってきていることは「社会的転回」と呼ばれる。それと並行して、アーティストの側では、芸術施設の外で作品を制作しようとする動きがみられるようになっているそうだ。そしてそこでは、地域活性化的な側面からアートが見出され、そういった活動は肯定的に捉えられている。しかしながら、地域活性化の手段としてアートが用いられるようになり、そのアートに地域の文化資源(=歴史)が援用されるようになると、地域社会のマジョリティの側に位置づけられるものに反する歴史を扱うことができなくなり、結果として、アーティストが地域社会内で流通する支配的な言説を広めるような存在となることもあると指摘されていた。

 

大阪の旧造船所とフィリピンでの事例から

 つづいて牧田は、ふたつの事例をとりあげ、歴史と芸術作品の接合について報告した。はじめに大阪の旧造船所の事例である。旧造船所の展示において、その空間を単に「美しい」とみなす発言があったという。しかしながら、その場所には、徴用工や連合国軍の捕虜が、強制収用・就労していた過去や歴史があった。地域社会の歴史・過去を知らないまま、キュレーターがその空間をアートの文脈で昇華しようとすることの暴力性を痛感し、地域にアートが出ていくときに、地域社会に内在した歴史に無自覚なままでは問題があるのではないかという認識をもつにいたったという。
 フィリピンでの芸術実践の事例もまた、歴史や過去を学んだ成果として出されている。出発点となったのは、1945年マニラ戦の軍事裁判についての文書であるという。その文書からは、日本軍による軍事性暴力について、どこで、なにが起きていたのかがわかるといい、いまでも現存する事件発生現場の部屋にて作品の制作がおこなわれた。すなわち、文書の分析(調査)から作品制作をおこなうということである。
 こうした歴史実践は、一般的な学術的意味におけるアプローチとは異なるものであるという。すなわちこれは、芸術実践と接続することによって歴史について考え、かつ歴史について考えたことを芸術実践としてアウトプットする、という試みである。牧田によると、こうした実践をスケーラブルな歴史研究と比較した際、特徴として挙げられるのは、論文化しえないような断片(エフェメラ)への注目であるという。要するに、論文というフォーマットをとるときには捨象されてしまうような経験を、芸術実践をとおして考えてきたということである。
 そしてそこには、2つのノンスケーラブルなものが存在すると、牧田は論じる。すなわち、史料/資料と芸術実践が絡まり合うところでプロジェクトが進んできたということである。ただし、それは慣れ親しんだ学術研究のフォーマットからみればノンスケーラブルなものだが、別の基準からすれば測定可能なものになるかもしれないと留保をつけくわえる。そして、自分がもっていない基準にどのように向き合っていくのか、そして向き合ったときに自分の基準がどのように変容するのか、というような、さまざまな「ものさし」が絡まり合うところで歴史を考えることが、面白い研究の出発点になるのではないか、と述べていた。

 


3.調査の規格不能性から考える
   アカデミアの〈効率性〉と〈面白さ〉……根本雅也

 

 根本の報告では、質的調査がマニュアル化している現状と、実際の調査における〈規格不能性〉の重要性について取り上げられたのち、現在のアカデミアにおいて求められているような効率性と〈面白さ〉を対比するかたちで議論していた。

調査におけるノンスケーラビリティ

 はじめに、近年、質的調査に関するテキストが膨大に出ていることが確認され、質的調査がマニュアル化されつつある現状について述べられた。フィールドワークはこれまで、ブラックボックス、あるいは職人芸という側面が強調されていたが、テキストでは「失敗しないためにはどうしたらよいか」というHow to 的な要素があるという。しかしながら、質的調査において、そのような態度はよくないのではないかと根本は指摘する。
 こうした流れを受けてか、学生から「どの調査方法が良いのか」や「どの方法が適当か」という質問を受けることがあるという。しかしながら、研究ないし調査がうまくいかないのは、果たして方法の問題なのだろうか、と根本は問う。質的調査がマニュアル化されるなかで、方法論の偏重もみられるようになったが、それによって調査における〈出会い〉や〈対話〉がみえにくくなっているのではないかとも述べられていた。
 そのような偶然性をもった〈出会い〉や〈対話〉について考えるために、根本自身がおこなってきた調査について語られる。2007年から2008年にかけて、広島県広島市を中心におこなった調査において、当初根本がもっていた関心は、自分の被爆体験を他者に語る証言活動にあったという。ただし調査においては、問いを明らかにするような〈出会い〉と〈対話〉がある一方で、予期せぬ解答や態度と出会ったり、〈出会い〉があらたな問いにつながったりすることもあるという。
 さらに調査には、問いがわからなくなるような〈出会い〉もあるという。根本は、衝撃をともなう〈出会い〉を通して、どう理解したらいいのか、あるいはどうすれば良いのかがわからなくなってしまうことがあるという。実際、そうした経験から、それらをどのように書いたらいいのかわからなくなることもあったそうだ。
 しかしながら、根本が強調していたのは、以下の点である。〈出会い〉と〈対話〉は、問いを解き明かすだけでなく、あらたな問いを生み出すこともあること、また調査者自らを問い直す機会にもなるということ。くわえて、それらは規格化できない要素であるものの、それにより調査に命を吹き込むものであるということ、である。

 

アカデミアにおける〈効率性〉と〈面白くなさ〉

 つづいて根本は、学生から「質的調査は効率が悪いイメージがある」や「コスパが悪い」と言われた経験について語る。そうした質問の背景にあるのは、目的なきコストパフォーマンスや、タイムパフォーマンス志向なのではないかという考えもある一方で、それはアカデミアにも見られる事態かもしれないと指摘する。
 近年の研究に関して、ギャップスポッティング型のアプローチが多いと論じるひともいる。すなわち、ギャップを見出し、それを埋めようとする研究が増加しているということである。そして、そうした研究は、既存の理論にある前提を再生産しているだけではないか、という指摘がこれまでになされている1)
 根本は、こうした状況について、投稿論文をめぐる主客転倒が起きているのではないかと指摘する。すなわち論文を、研究成果を世に問う手段ではなく、そこに掲載されることを目的として生産している現状があるのではないか、ということである。その背景には、アカデミアにおける〈効率性〉の檻の存在があると根本は述べ、その状況において、面白さは問われなくなっているという。
 では、このような状況のなかで〈面白さ〉はどのように考えられるだろうか。根本は、わたしたちが自明視していたものを否定すること/されることが「面白さ」の重要な要素なのではないかと述べる。そしてその〈面白さ〉をもたらす方法・アプローチのひとつが謎解きの方法論であり、その謎と出会えるのは、文字通りのフィールドだけでなく、歴史文書・統計資料・量的データ・学知をふくむ〈フィールド〉においてではないかと指摘する。そして、上記のような効率性ではなく、こういった面白さに向き合うことが大事なのではないか、として報告を終えていた。

 


4. 〈面白さ〉と効率性、あるいはギャップから出発することに
  ついて──質疑応答より

 質疑応答では、報告者それぞれが考えるアウトプットの方法や実践の意味、あるいは媒体としての本がもつ可能性についてなど、さまざまな質問が出ていた。なかでも、とくに活発に議論されていたのは、〈面白さ〉はどのようなものとして考えられるか、ギャップスポッティングの問題をどう考えるか、また研究という活動につきまとう効率性についてであったように思う。
 フロアからは、研究の面白さとは「真偽に介入できる」点にあると考える意見が出ていた。わたしたちが自明視しているものを解体するような試みは、たしかに面白い。しかしながら、院生を指導するなかで、より効率よく入手できるものが正しいとし、効率性と妥当性を混同している状況がみられることもあるという。つまり〈面白さ〉という観点から研究を考えるのであれば、事実や妥当性と効率性がどう関係するのかについても考える必要があるということであった。また、院生がタイムパフォーマンスやコストパフォーマンスについて語るとき、その背景には「失敗できない」という状況もあるのではないか、という意見も出された。
 くわえて、ギャップスポッティングについては、それ自体が問題なのではなく、アイデアの種がある場所でもあるのではないかという意見も出された。それに対しては、ギャップスポッティングそれ自体が問題なのではなく、失敗してはいけない/できないという状況に囲い込まれている現状のほうに問題があることが確認された。また、ギャップを埋めることと、理論を開発することは分けて考えられるものではないということについても指摘がなされた。

 


5.〈面白い〉論文と、業績としての論文

 さて、ここで3名の報告を再度簡潔にまとめたい。それぞれの報告において〈面白さ〉をどのような点に見出すことができるかは、つぎのように語られていた。はじめに鈴木は、幼少期の経験について触れたあとで、AIをはじめとする技術の登場や、資料/史料のデータ化がすすむ昨今の状況において、他分野の研究者らとコラボレーションをすることにその可能性を見出していた。つづいて牧田は、歴史実践-芸術実践を事例として、さまざまな「ものさし」が絡まり合う地点が、面白い研究の出発点になるのではないかと述べていた。最後に根本は、わたしたちが自明視していたものを否定すること/されることが面白さの重要な要素なのではないかといい、それに出会えるのは広義の〈フィールド〉においてではないかと述べていた。
 3名の報告の内容をパッチワーク的に表現するならば、研究の〈面白さ〉とは、さまざまな資料/史料や人、あるいは〈フィールド〉と出会い、対話をすることをとおして、既存の認識や基準とは異なるものが出てきたときに感覚されるもの、といえるだろう。
 こうした研究への向き合い方には、強く共感する。筆者の経験にもとづいて、個人的に考える〈面白さ〉について語ろうとするときにもまた、それは既存の認識枠組みとは異なるものを提示することである、というと思う。また、フィールドワークによるさまざまな出会いと対話をつうじて、あたらしい問いが生まれることも身をもって経験している。
 だが同時に、質疑応答で議論されていたように、多くの大学院生が「失敗できない」と感覚していることにも共感できるところがある。一大学院生として、〈面白い〉研究をしたいという思いは、もちろん持っている。しかしながら、今後のキャリアを考えるうえで、業績としての論文が必要だと意識していることも、また事実である。
 〈面白さ〉を追求することは簡単なことではないし、業績を追い求めるだけでは、スケーラブルな枠組みのなかでしか論文を書けないということも承知している。とはいえ、論文を書こうとするとき、その動機の根底にあるのは、やはり〈面白さ〉なのではないだろうかと、これまでの研究会を通じて感じている。振りかえると、わたしが先日執筆した論文においても、最初の出発点は、現代の狩猟者たちが自らを「マタギ」と呼ばないことに、驚きと興味を持ったことにあった。そして、これまでの民俗学的な研究がつくりあげてきた「伝統的なマタギ」という枠組みとは異なる狩猟者像を描き出そうと試みたのである。

 研究したことを論文というフォーマットで世に出すとき、それをある程度スケーラブルな枠組みのなかでおこなわなくてはいけないことは、わたしひとりの力でどうにかできるものではない。とはいえ、たとえ論文という形式をとっていたとしても、〈フィールド〉で見聞きしたこと、そしてそこに見出した〈面白さ〉を熱量のある「記述」によって表現することは可能なのではないだろうか。
 〈面白い〉論文と、業績としての論文の両方が求められるというアンビバレントな状況において、研究とどのように向き合っていくのか。この問いは、研究会を通じてこれからも考えていきたい。
 

1) Alvesson, M. & Sandberg, J., 2013, Constructing research questions: Doing Interesting Research, SAGE Publications Ltd.(=佐藤郁哉訳、2023、『面白くて刺激的な論文のためのリサーチ・クエスチョンの作り方と育て方』、白桃書房。

© 2025 くにたち歩く学問の会        発行:東京都国立市中2-1 一橋大学大学院社会学研究科赤嶺研究室

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