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フィールドで出会う
「わからない」と向きあう

鈴木 佳苗
一橋大学大学院 社会学研究科 博士課程

1.〈偶発性〉を呼ぶ場としてのフィールド

 「研究の「⾯⽩さ」は⾔語化できるか?」において、報告者の赤嶺淳は、研究の礎を方法論と問題意識においている。いずれも、一朝一夕で発見したり、身につけたりすることはできないものである。マツタケにかかわる複数のフィールドを横断的に調査したアナ・チンは「研究分野は研究の進展とともに発生してくるのであって、研究に着手する以前から存在しているわけではない」(Tsing 2015=2019: 8)と述べるように、研究分野ははじめから存在しているものではない。したがって、研究を進めるなかでは常に批判的な視点で学術分野自体を捉え、疑いを持つべきであろう。またそうだとすれば、研究分野と切っても切り離せない関係にある方法論にかんしても、自身の問題意識から構想される研究に適した方法を、模索し続けなければならない。
 赤嶺は、自身が影響を受けたとする2人の研究者──鶴見良行とチン──の軌跡を追体験することで、独自の方法論を構築しつつある。鶴見やチンに共通する、モノ研究における複数の地域をまたぐマルチ・サイテッドなアプローチに魅せられ、自身の境地を開拓したようである。このようにして生み出された赤嶺の研究方法は、先行研究をまたぎながら、フィールドに足を運ぶこと、が核である。
『マツタケ』の翻訳を進めるなかで、赤嶺は自著『鯨を生きる』脱稿時には検討できていなかった、かつての資本主義を象徴する世界商品であった「鯨油」に着目する必要性に気づいた、という。鯨油に注目すれば、1960年代以降、動物性油脂に取って代わったパーム油や大豆油に代表される植物性油脂にも視野がひろがり、現在は、油脂間の相対的な関係性を捉えようとしている。そしてそこから生まれた仮説は、「近代とは、資本蓄積を目的として搾取型経済からプランテーション型経済に移行することではないか」というものだ。調査研究の蓄積が、次なる研究課題や問いにつながっていることは、筆者自身の修士論文の反省点についても、次に活かすことができる材料であると、研究に対する姿勢を前向きに捉えなおす支えとなった。


2.自身の調査に引きつけて①──新たな問いへの手がかり

 筆者は、修士論文「境界をつなぐ⾷─現代マニラ首都圏に暮らす回帰ムスリムの語りから」の執筆にあたり、フィリピンのマニラ首都圏で、2023年8月28日〜9月3日、2024年3月25日〜4月12日、2024年9月18日〜23日の計32日、参与観察とインタビュー調査を中心としたフィールドワークをおこなった。『マツタケ』では、著者のチンがフィールドにおける調査を通じて、しばしば戸惑いや驚きをともなったことが赤裸々に描かれている。そのなかで本稿ではとりわけ、以下の記述を取り上げたい。

 オープンチケット村のすべてに、わたしは驚愕させられた。とくにオレゴン山中における東南アジア的な生活の雰囲気には、びっくりさせられるばかりであった。……アメリカの不安定である様─瓦解に生きること─は、こうした構造化されていない複数性の、溶解しえない混乱のなかに存在している。もはや人種のるつぼではなく、わたしたちは誰だかよくわからない他者とともに生活しているのだ。(Tsing 2015=2019: 150)

 筆者もフィリピンの調査において、その社会に生活する人びとの出自や民族にかんする想定が覆る、という点において類似の経験をもつ。筆者は学部在学中、マニラにあるデ・ラ・サール大学へ交換留学をし、そこでフィリピンのイスラーム教について学んでいたため、マニラという都市がどのような場所で、どのような人びとが住む場所であるか、またフィリピンのイスラーム教の歴史や民族集団についても、ある程度知っているつもりであった。
 フィリピンはキリスト教徒が国民の9割を占める国家であり、イスラーム教徒は人口の約6パーセント程度とマイノリティである。フィリピンにおけるイスラーム教は、14世紀頃にフィリピン南部のスル諸島に伝来されてからというもの、ミンダナオ島など南部を中心に繁栄した。そのためフィリピン人イスラーム教徒は、ミンダナオ島を中心とする南部地域にルーツをもつ、13の言語民族集団(すなわち、「生まれながらのイスラーム教徒」)が多数を占める。さらに、近年ではキリスト教徒からイスラーム教徒へと回帰(改宗)した人びと─現地語で「バリック・イスラーム(balik Islam)」と呼ばれる人びと─が増加しており、フィリピン人イスラーム教徒は大きく二つのカテゴリーに分類されてきた。
 しかしながら、修士1年次にマニラ首都圏のムスリム・コミュニティ(イスラーム教徒が集住する地域)に足を運んでみると、そのような二分法では把握できない多様性と複雑性に直面することとなった。たとえば、父が13の言語民族集団に数えられるタウスグ人、母がバリック・イスラームという両親をもち、ミンダナオ島には居住したことがないイスラーム教徒との出会いである。
 筆者は彼のことをどのように呼称すべきか、単純に既存の枠組みには分類できない難しさをおぼえた。また修士論文では、フィリピン人イスラーム教徒がどのような食事をハラールと判断するか、という研究課題を設けていたが、「フィリピン人イスラーム教徒」と一括りにして議論すれば、それぞれの言語民族集団やバリック・イスラームの多様性すらも見過ごされてしまうと、思い悩んだ。
 このような経験は、筆者自身の認識の枠組みや、研究における記述の方法に問いを突きつけるものであった。同時に、このような驚きや悩みは、既存の研究における民族分類の再検討を迫ることでもあり、フィールドで直面した悩みに向きあうことは、先行研究の欠落点や問題点を発見する「手がかり」ともなりうる。チンが「東南アジアから米国にやってきた難民についての研究のほとんどは、東南アジアで民族が形成された過程を無視している」(Tsing 2015=2019: 48)と指摘するのは、まさに先行研究とフィールドとの往還によって得られた「手がかり」によって発見した、新たな問いではないだろうか。


3.自身の調査に引きつけて②──終わりのない「研究の旅」

 自著『鯨に生きる』の脱稿後、ノルウェーでの調査を経て、日本の捕鯨を相対化でき、また当時気付けていなかった鯨油という世界商品の観点を分析できなかったことが反省点であると赤嶺は回顧した。チンも、自身のフィールドワーク調査について、「わたし自身のマツタケをめぐる歩みは、まだ終わりそうもない。いずれはモロッコや韓国、ブータンにも足をのばさねばならない」(Tsing 2015=2019: 7)と述べており、特定の地域での経験が、他地域との比較や相対化を通じて、再解釈される過程の重要性を強調している。こうした複数のフィールドを往還するなかで、〈偶発性〉が訪れる土壌が整えられていくのかもしれない。
 筆者は修士論文を執筆するなかで、マルチ・サイテッドな調査の必要性を抱えていた(いる)。修士論文を提出したいま、指導教員や審査教員からの講評を受けて痛感しているのは、フィールドの射程が不十分であったことである。フィリピンにおけるイスラーム教の歴史をたどれば、前述のように14世紀以降、南部のスル諸島やミンダナオ島を中心として定着し、発展してきた。1970年代以降、南部地域で続くイスラーム分離独立運動の戦火から逃れるため、あるいは南部の経済的困窮から、より安定した職業を求めたイスラーム教徒がマニラ首都圏へ移住を始め、現在マニラ首都圏に居住するイスラーム教徒は約20 万人とも推定されるが、フィリピン国内におけるイスラーム教の宗教的・政治的・文化的な中心は、依然として南部に位置づけられていると言えるだろう。
 しかしながら、修士論文の研究では南部地域への渡航がかなわず、マニラ首都圏でのフィールドワーク調査と資料調査に限定せざるを得なかった。これは、修士課程の2年という時間的制約だけでなく、南部地域の治安が安定していないなかで、現地に頼ることのできるネットワークをもてなかったことが大きいが、フィリピンのイスラーム社会をつかむためには、やはり南部地域における調査が不可欠だと考えている。
 筆者が食のハラールにかんするインタビュー調査をおこなうなかで、マニラ首都圏で出会ったイスラーム教徒たちは「ダバオ(ミンダナオ島の都市)のほうが、ハラールを含めた宗教実践に厳格であった」、「マニラでの生活は(イスラーム教徒にとって)ダバオよりも難しい。マニラにはまだまだイスラーム教徒が少ないから、食事はとても大変」と、日常生活における食のハラールについて、しばしば南部地域と比較する語りがあった。また、フィリピンは国家主導のハラール認証制度が実現せず、現在フィリピン国内には複数のNGOや民間団体によるハラール認証機関が存在するが、そのうちの多くがミンダナオ島に拠点をおいている。彼らの語りを本当の意味で理解するには、またフィリピンのイスラーム社会のなかで食のハラールを捉えるには、マルチ・サイテッドなアプローチを取り入れなければならない。
 しかし一方で、現実的な問題も残っている。研究はどこかでひとまずのピリオドを打ち、その時点で得られたデータをもとに、論文としてアウトプットしていかなければならない側面がある。終わりのない研究の旅のなかで、いかに区切りをつけながら歩んでいけばよいのか。これも共通の答えはないだろうが、常に思案しながら進んでいかなければならない。


4.おわりに

 『マツタケ』には、ほかにも感銘を受けた点が複数あるが、特にローカルなフィールドの点と点を紡いでゆくことで、グローバルな観点をも描き出していることは特筆しておきたい。筆者は修士論文を執筆するなかで、その土地固有の歴史的、あるいは文化的な文脈によって形成されている事象を、グローバルな概念や理論に接続することの危うさと、難しさを強く感じていた。チンはそれぞれのフィールドでの経験を丁寧に描写することで、グローバルな議論に展開していた。これは筆者の今後の研究において、大きなヒントとなった。
 最後に、チンは学問のあり方についても、マツタケから得られる示唆が適用可能であると指摘する。学問を私有化する傾向にあることを危惧する彼女は、「まだ知られていない学問の潜在性をくすぐるためには─予期せぬマツタケのシロのように、知の森を協働で維持していかねばならない」(Tsing 2015=2019: 425)と述べる。すなわち、共同研究という「遊び仲間」との協働から生まれる着想や偶発性の重要性を説いている。『マツタケ』第14章のタイトルである「セレンディピティ」は、失敗や崩壊のなかに、人の予期を超えるノンスケーラブルな存在であるマツタケや、その周囲の森林・動植物をあらわしているが、それは同時に、チン自身の調査方法をも映し出す言葉のように思われた。筆者が次にフィールドを訪れるさいには、調査者としてそのような偶発性に出会うために、いまできることを積み重ねていきたい。

 

参考文献

Tsing, Anna Lowenhaupt, 2015, The Mushroom at the End of the World : On the Possibility of Life in Capitalist Ruins, Princeton: Princeton University Press.(赤嶺淳訳,2019,『マツタケ──不確定な時代を生きる術』みすず書房.)
鈴木佳苗,2025,「境界をつなぐ⾷──現代マニラ首都圏に暮らす回帰ムスリムの語りから」修士論文,一橋大学大学院社会学研究科.

© 2025 くにたち歩く学問の会        発行:東京都国立市中2-1 一橋大学大学院社会学研究科赤嶺研究室

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