クマ肉を売ること、
あるいは逃れつづけるマイタケ
──出会いに開かれた研究のあり方と、スケールについて
松浦 海翔
一橋大学大学院 社会学研究科 博士課程
1.気迫のこもった研究を目指して
赤嶺の報告は、「研究の『面白さ』は言語化できるか?」という問いからはじまった。そのことについては難しいとしつつも、気迫のこもった作品だけが読者の心を掴むことができるとして、そこに「面白さ」を共有する可能性を見出そうとしているように感じられた。
報告は、まさしく赤嶺の研究に対する気迫がひしひしと伝わってくるものであったように思う。以下では、まず赤嶺の報告をまとめたあとで、赤嶺の報告と、自分自身がおこなっている阿仁マタギと呼ばれる狩猟者についての調査研究、それからアナ・チンの著作である『マツタケ──不確定な時代を生きる術』という三者のあいだで、わたしの調査研究から見出しうる資本主義的な要素と、研究のスケールについて考えたい。
2.混ざりあう2つのスケール
──プランテーションから近代科学まで
以下で議論することにも関わるため、まずは赤嶺の報告をまとめるにあたっての視点について触れておきたい。わたしが理解したかぎり、今回の報告において一貫していたキーワードとして、「スケール」あるいは「スケーラビリティ/ノンスケーラビリティ」が挙げられる。それが意味するところは多重/多義的であり、第一に研究それ自体のスケール、第二に資本主義、あるいは産業に関係する意味でのスケールである。またこの意味で用いられる「スケール」は、本稿の視点にもかかわるものである。そのため、まずは『マツタケ』を引きながら、「スケール」、ないし「スケーラビリティ/ノンスケーラビリティ」について述べておきたい。
チン(2015=2019: 58‒59)は、「ほとんどの近代科学では、研究の枠組みを変えることなく、無限大に拡張していくことが要求される」という点を指摘し、「研究枠組みをより大規模なスケールに適用させる能力は、近代知であることの証になっている」という。さらには、スケーラビリティ〔規格不変性〕を「プロジェクトの枠組みをまったく変化させずに、円滑にスケールを変えることができる能力」であると説明し、その点にビジネスと研究の同質性を見出してもいる。すなわち、スケーラブル〔規格不変〕なビジネスは、スケールの拡大に際して、組織体制を変化させる必要がないのと同じように、スケーラブルな研究は、既存の研究枠組みに合致する、あるいは適合するようなデータだけを受容するというのである。その意味において「スケーラビリティは、プロジェクト内要素間の出会いに内在している不確定性を無視することを要求する」。
『マツタケ』に触発された赤嶺がいうには、本研究会を組織した根底には「あらたな社会科学のありかたが求められているいま、それに資するような、異なる分野・世代の人たちとの共同研究を組織できないか?」という問題意識がある。というのも『マツタケ』は、世界各地でのマルチサイテッドな、かつ共同でおこなわれた研究の成果として提出されたものだからである。
赤嶺がこれまでにおこなってきた、ナマコ研究においても、捕鯨研究でも、あるいは現在進行中の鯨油(油脂)の研究においても、各地を歩き回ること、史資料を横断すること、そしてそうした場での人びとや研究者との出会いが、重要な位置を占めているように見受けられた。とりわけ、今回の報告のなかで印象に残っていることとして、以下の2点が挙げられる。第一に、土佐清水ジオパークでの経験についてであり、これは研究の方法論的な側面にかかわるものである。第二に、産業としての捕鯨業と、油脂の確保にむけたプランテーション経済の創発についてである。
はじめに、第一の点についてである。捕鯨にかかわってきた土地の景観を見たときに、それがこれまでの経験や知識と結びつき、地理的条件の近接性にきづいたというものであった。またそのこととも関連して、質疑応答のなかで「資料をどのように見つけているのか?」という質問に対し、赤嶺が「まさに偶発性によるものであり、現代の研究もしている関係から、経験と資料が合わさる瞬間がある」と回答していたことも印象に残っている。資料や土地、あるいは人との偶発的な出会いが、研究を大きく変容させる可能性に開かれているということなのであろう。
第二の点について、報告のなかで説かれていたのは、産業としての捕鯨業において、いかにして鯨油が砂糖などと同じく世界商品になったのか、そして1960年代に鯨油市場が崩壊したあとで、油脂の生産現場はどのようになっているのか、ということであった。後者について、赤嶺によれば、1960年代以降は植物性油脂の利用が動物性油脂のそれを大きく上回っており、それは「プランテーション型経済」とでも呼べるものが確立されたことを意味しているという。また、それに関連して興味深かったのは、ハワイ諸島における「偶発的資源開発」の過程についてである。ハワイ諸島において、搾取型経済からプランテーション型経済への移行は、ラッコやオットセイの毛皮、白檀、銃火器、捕鯨、サトウキビやパイナップルといったプランテーションなど、さまざまな要素によって生じたものであるという。
ふたたびアナ・チンのことばを引用したい。チン(2015=2019: 59‒61)は、プランテーションをスケーラビリティの代表事例として検討している。16世紀、17世紀のブラジルのサトウキビ・プランテーションが成功したのは、ポルトガル人たちが地元の人びとと植物を排除(疎外)し、空っぽとなった土地に外部から労働者と作物を持ち込んだためであった。また、そこに投入された労働者も、あるいはキビも「自己完結的で、出会いとは縁遠」いものでなくてはならなかった。その結果「労働と商品作物の両方について、プロジェクトの枠組みの範囲内で互換性が創発した」、すなわち枠組みを変えずにスケールを拡大しつづけることができたわけである。
3.資本主義的要素と研究のスケール
──クマ肉とマイタケの事例から
最近になって、わたしの調査地の集落に、ジビエの解体処理施設が新設された。それにより、これまでは原則として自家消費しか認められていなかった野生鳥獣の肉を販売することが可能になった。
わたしの調査地に住んでいる狩猟者たちは、おもにツキノワグマ(以下、クマ)を狩猟している。そして、狩猟により捕獲されたクマは、山の神からの「授かりもの」といわれている。従来、山の神から「授かった」クマは、「マタギ勘定」と呼ばれる方法で分配されてきた。そこでは、参加者全員に対して質的・量的な平等を担保しながらクマ肉が分配される。また基本的にクマ肉は、ダイコンや豆腐、ネギなどと一緒に煮込み鍋にして食されてきた。そのため分配をするにあたっては、大きい肉も、切れ端の肉も、あるいは部位も関係なくごちゃまぜにされ、袋に入れられていた。
しかしながら、クマ肉を販売するとなると、部位というものが重要になる。こうした状況のなかで、解体の方法も変わることになる。これまでは、ある程度部位が均等に行き渡り、最終的な重さがほとんど同じになればよいとされていたため、肉の切り取り方は重視されていなかった。だが、販売するにあたってはそうではない。とりわけ背ロースは高価なため、できるだけひとまとまりとしてとるほうがいいのである。そして、切りとられた肉は東京にあるフレンチのレストランや、創作和食料理を提供する飲食店に送られる。
山の神からの「授かりもの」が、解体処理施設のなかで翻訳され、東京のレストランに送られる。クマと人間、そして山の神の絡まりあいのなかに、あらたに市場が入り込んできたのである。
他方で、こうした翻訳を逃れつづけているものがある。それは奇しくも、『マツタケ』で描かれていたもの、すなわちキノコである。わたしの調査地では、クマなどと同様に、山菜やキノコもまた、山の神からの「授かりもの」であると考えられている。
キノコを手に入れることができるかは、やはり「偶発性」によっている。ある秋、わたしは集落の人と連れ立って山に入っていった。「この先に、いいナメコスポットがあるんだよ」と、かれは軽トラックを運転しながらいった。林道をしばらく走っていると、土砂崩れの影響で、目の前の道路がごっそりとなくなっていることがわかり、それ以上進めないことが明らかになった。かれは「ああ、俺のナメコスポットが……」と悲しみを露わにしていた。
そのあと、別の山に入ってみることになった。かれはサモダシ(ナラタケ)が生える木も知っていた。しかしながら、タイミングが遅すぎた。ほとんどのサモダシは、すでに採取できる時期を終え、黒くなっていた。それもあって、もう一度別の山に行こうという話になった。しばらく山のなかを歩くと、沢沿いに土砂崩れが起きた跡に出くわす。木々は倒され、地形は変形し、空が見えるようになっていた。同行していたかれいわく、倒れていた木は、キノコが生えそうな予感を感じさせる見た目をしているという。うまくいけば、かれは翌年ここでキノコをとるだろう。土砂崩れで行けない場所があり、そのためほかの山に行く。そして、別の場所では、土砂崩れからキノコが生える可能性を感じること。おなじ「土砂崩れ」を機に、キノコとの別の関係性が浮かび上がるのである。
ほとんどのキノコは、自家消費用として採取される。ただし、集落の人のなかには、それを販売している人もいる。自家消費されることも、販売されることもあるキノコのなかで、とくに異彩を放っているのは、マイタケである。
1983年7月、「株式会社雪国まいたけ」(現ユキグニファクトリー株式会社)が五十沢工場(新潟県南魚沼市)を新設し、マイタケの生産販売を全国的に開始した。マイタケは、色もかたちも大きさも、ほとんど規格化され、ビニールのパッケージに詰められて販売される。わたしたちは、いまやスーパーマーケットでそれらを手軽に購入することができるようになった。
しかしながら、わたしの調査地におけるマイタケと人びとの関係性は、まったく異なる様相をみせる。それはつねに隠されるのである。
キノコの採取に情熱を注ぐ人であれば皆、何箇所かはマイタケが生える場所を知っている。そしてその場所を人に教えることはない。極端な場合には、家族にでさえ秘密にしておくこともあるという。ただし、その場所に毎年マイタケが生えるとはかぎらない。場合によっては、7年に1回しか生えてこないものもあると聞いたことがある。そのためかれらは、毎年時期になるとマイタケを見に、山に行く。そしてもし小さいものが生えていることが確認されれば、ほかの人に見つからないように、息を止めながら小さい枝や落ち葉をかけておくという。息を止めるのは、呼気によりマイタケが黒く変色するのを防ぐため、だそうだ。そして何度も通ったすえに、大きくなったマイタケを採取することができるのである。ただし、それはときに失敗する。隠しているとはいえ、ほかの採取者に見つかってしまえばそれまでであるからだ。見つけたマイタケが大きくなるのをどこまで待つか、という駆け引きが、そこには存在している。
クマ肉をはじめ、野菜や山菜、ほとんどのキノコ、あるいは労働力にいたるまで、それらは惜しみなく分け与えられるのに対して、なぜマイタケは隠されるのだろうか? 主婦たちが連れ立って汽車で行っていた定期市での買い物が、スーパーマーケットでのそれに代替されたこと、そして雪国まいたけがマイタケの人工栽培に成功し、スーパーマーケットで販売されはじめたことを、人びとはどのように経験していたのだろうか? このことについては、これから掘り下げて研究できればと考えている。
わたしがはじめていまの調査地での調査をおこなったとき、当初の関心は先述した「マタギ勘定」の実践にあった。資料や文献と向き合うときも、「マタギ勘定」のことが書かれているところを探し、抜き出すように読んでいた。参与観察やインタビューなどといった調査もまた同様で、「マタギ勘定」のことを見聞きすることに注力し、それ以外の生活が見えていなかったように思う。そこで目指していたのは、理論的な枠組みのなかで捉えられるデータをとることだったのである。
このことに気がつけたのは、大学院に入り、調査や研究が「出会い」に開かれたものであり、まさしく「偶発性」が重要であることを学んだからである。わたしはたくさんの狩猟者や集落の人びと、あるいは研究者と出会い、会話をすることで研究をしてきた、と思っている。また、クマやカモ、山菜、キノコとの出会いが、あらたな研究をおこなうきっかけになったともいえるかもしれない。ただし、いろいろなテーマが混在する、わたしのこうした研究は、ともすればひとつにまとまらないのではないか、という不安に苛まれることもある。しかしながら、もしかするとそれこそが、わたしが近代的な知のあり方に規定されていることの証左なのかもしれない。今後は、研究の枠組み、あるいはスケールをどのように壊し、構築していくかについても向き合っていきたい。
文献
Tsing, Anna Lowenhaupt, 2015, The Mushroom at the End of the World: On the Possibility of Life in Capitalist Ruins, Princeton University Press.(赤嶺淳訳, 2019, 『マツタケ──不確定な時代を生きる術』みすず書房.)