数値と感覚のはざまで
──肌診断カウンセリングの現場から考えるノンスケーラビリティ
永山 理穂
一橋大学大学院 社会学研究科 博士課程
1.研究背景と問題の所在
赤嶺報告では、アナ・ローエンハウプト・チンの著書『マツタケ──不確定な時代を生きる術』(2019年邦訳)における「ノンスケーラビリティ」概念と多種間の絡まり合いに着目し、資本主義的な標準化から溢れ出る即興的・周縁的な実践の意義が指摘された。赤嶺はまた、制度的な管理から零れ落ちる経験知の厚みを、鯨油・ナマコ・捕鯨などの事例に即して論じ、制度的スケールと現場実践の「ねじれ」を読み解く方法論の重要性を強調している。
こうした赤嶺報告を踏まえ、本稿ではアナ・チンのノンスケーラビリティ概念と、カナダの社会学者ドロシー・E・スミスの提唱する「everyday world(日常世界)」概念を分析の軸に据え、美容部員による肌診断カウンセリングの現場で観察される「客観的な数値と主観的な体感の不一致」への即興的な対応実践を考察する。具体的には、肌質水油計など機器による測定値(制度的テクスト)と顧客自身の肌感覚(語り)の間に生じる齟齬を、美容部員がその場限りの要因説明によって合理化・物語化するプロセスに注目する。そして、このような即興的調整行為をノンスケーラビリティの視点から、再現不可能・非標準化的な価値創出の一形態と位置づける。
本稿の構成は以下の通りである。まず第2節でスミスとチンの理論枠組を整理し、両者を接続する視座を示す。第3節では赤嶺報告および『マツタケ』の民族誌的記述に現れる制度的スケールと現場実践のねじれを示す具体例を概観する。続く第4節では筆者のフィールドノートに基づき、美容部員と顧客との肌診断カウンセリングの実践を描写する。第5節においてその実践をeveryday worldとノンスケーラビリティの観点から再評価し、制度と現場のねじれを読み解く方法論的意義を検討する。最後に第6節で考察とまとめを示す。
2.スミスとチンの理論枠組み──
everyday worldとノンスケーラビリティ
ドロシー・E・スミスの提唱する「everyday world as problematic(日常世界をプロブレマティックに捉えること)」は、フェミニストの立場から日常生活世界に埋め込まれた社会関係を分析するための視座である。その基盤となるアプローチである「制度のエスノグラフィ(Institutional Ethnography)」は、従来の客観主義的な社会学知に対する批判として生まれた。彼女は「客観化された知識」に疑問を呈し、人々の経験する日常世界と、それを組織化する制度的関係との連関を明らかにしようと試みた(Smith 1987: 155-156)。つまり、日常世界を丹念に調査することによって、制度や権力によって見えなくなっている社会的組織化の実態を可視化しようとしたのである。スミスによれば、調査は現実の具体的状況から開始し、その状況を形作っている制度的プロセスを下から掘り起こすべきだという。こうした視点は、トップダウンに一般理論を適用するのではなく、エビデンスに富む日常実践の厚みから社会構造を読み解く方法論を提供する。
他方、人類学者アナ・ローエンハウプト・チンは、著書『マツタケ』の中で「ノンスケーラビリティ(non-scalability)」という概念を提起している。これは、近代資本主義が前提とする一様なスケール拡大に乗らない現象に光を当てる概念であり、すなわち、あらゆる規格化を拒絶する性質を指す(Tsing 2015=2019: 57-66)。チンの議論によると、資本主義的な「進歩」は常に規格化と拡大再生産によって特徴づけられるが、その陰には規格化できないもの、すなわちノンスケーラブルなものが遍在し、しばしば見過ごされてきたという。チンはまた、人間と非人間を含む多種間の絡まり合いの中で生まれる予測不能で即興的な協働関係に注目し、それらが生み出す価値や生存戦略を描き出した。例えば、菌類であるマツタケと森林生態系、人間の拾い手たちとの相互関係は、単線的な工業的生産モデルには収まりきらない多様性と不安定性に満ちている。チンはこのような不確定な状況下でこそ生まれる価値に注目し、従来のスケール志向の開発論に再考を迫っている。
スミスとチンの理論はアプローチこそ異なるものの、接続可能な視座を提供しうる。スミスは日常世界に着目することで、大きな制度的枠組みから零れ落ちる人々の経験や知識をすくい上げる方法論を示した。一方チンは、資本主義的規格化に収まらない周縁的実践に価値を見出し、それを理論化した。両者とも、巨視的制度あるいはグローバル資本主義の論理だけでは捉えきれない「現場のズレ」に着目し、それを理解する枠組みを提示していると言える。すなわち、制度化された客観知からは見えにくい現場固有の知見や実践を掘り起こし、それらの社会的意義を積極的に評価する点で共通している。本稿ではこの接続可能性に基づき、スミスのeveryday worldという視点とチンのノンスケーラビリティという視点を統合的に用いて、あるサービス労働の具体的場面を分析していく。
3.民族誌的事例──
鯨油・ナマコ・マツタケに見る制度と現場のねじれ
赤嶺報告および関連する民族誌的研究からは、制度的スケールと現場実践のねじれを示す具体的事例がいくつか示唆されている。たとえば19世紀の捕鯨産業において、アメリカの資本家たちは世界中の鯨から得られる鯨油をグローバルな市場に供給したが、その採取現場である捕鯨船の活動は、当時の典型的な工場制生産とは似ても似つかない即興的で無規律なものだった。荒くれた船乗りたちによる鯨の追跡・解体という現場の様子は、規格化された工場労働のステレオタイプと鋭く対照をなしている。それでも彼らの得た鯨油は最終的に米国資本主義のサプライチェーンに組み込まれ、グローバルな商品となったのである。この事例は、制度化された生産モデル(工場制・大量生産)と現場の実践との間に大きなねじれがあること、そして資本主義がそうした現場由来の産物を「サルベージ(回収)」する形で価値化してきたことを示している(Tsing 2015=2019: 94―96)。実際、チンによれば、捕鯨を支えた先住民の知識・技術や、プランテーション農園に不可欠な太陽光といった「資本家が自ら生産・制御できないもの」を巧みに利用することこそがサルベージの本質である。資本主義はこうした非制度的な要素を自らの体系に翻訳・取り込みつつ発展してきたが、その翻訳過程にはしばしば暴力性や矛盾が孕まれると指摘される。すなわち、一見世界が均質に「開発」されていくようでいて、実際には多様で非標準な要素を背景に成立しているということである。
赤嶺自身の研究もまた、ローカルな文脈とグローバルな文脈の絡まり合いに注目しつつ、水産資源利用の歴史を描き出してきた。たとえば彼の著作『ナマコを歩く』(2010)では、東南アジアから中国圏に輸出された乾燥ナマコ交易をフィールドワークし、沿岸の漁民たちの知恵や分類体系と、国際市場の規格との齟齬を明らかにしている。そこでは、現場の漁民たちが長年培ったナマコの目利き技術や加工法と、輸出先で求められる品質基準との間にずれが生じ、そのずれを埋めるべく仲買人らが創意工夫する様子が描かれている。こうした例も、制度化された基準からこぼれ落ちるローカルな経験知が取引を成り立たせる上で不可欠であることを示していると言えよう。さらに赤嶺の『鯨を生きる』(2017)では、日本の捕鯨文化における捕鯨者たちの語りから、国際的規制や産業構造の変化に対する現場の適応と抵抗の歴史が綴られている。ここでも、グローバルな制度(商業捕鯨モラトリアムなど)とローカルな慣習との齟齬の中で、人々が模索した即興的な対応策が浮かび上がっている。
一方、『マツタケ』においてチンが提示した民族誌は、資本主義の周縁で展開するノンスケーラブルな経済活動の詳細な記述である。彼女はアメリカ・オレゴン州のマツタケ採取から日本への流通に至るグローバル・サプライチェーンを追跡し、栽培不可能な野生キノコゆえに生じる独特の取引ネットワークを描いた。マツタケ山では、ベトナムやラオスからの移民労働者をはじめ、多様な人々が秋になると森に集い、競い合いながらも協働してキノコを探す。そこには工場や農園のような画一的管理はなく、天候や生態系、労働者同士の関係性など、不確定要素に富む現場実践が展開する。それでも採れたキノコは選別・格付けを経て市場価値を与えられ、国際的な商流に組み込まれていく。チンはこのプロセスを通じて、「予測不能なものだらけの世界でこそ生まれる協調関係」や「スケール化できないからこそ可能な価値創出」の実例を示したのである。彼女の叙述から浮かび上がるのは、グローバル経済の隅々に存在する即興性と多様性が実は不可欠な役割を果たしているという点であり、それを正面から捉える理論装置としてノンスケーラビリティ概念が有効だという主張である。このように、赤嶺およびチンの民族誌的事例はいずれも、制度化・標準化の網目から漏れ出た周縁的実践の意義を示し、制度と現場のねじれに着目することの重要性を示唆している。
4.美容部員の肌診断カウンセリング─フィールドノートから
第4節では、デパートの化粧品売場における美容部員と顧客の肌診断カウンセリング場面について、筆者が参与観察で記録したフィールドノートをもとに描写する。美容部員は専用の肌質水分・油分測定器を用いて顧客の肌コンディションを数値化し、その結果に基づいてスキンケア商品の提案やアドバイスを行う。しかし実際のカウンセリングでは、機器が示す数値と顧客本人の肌感覚が一致しない場面がしばしば見受けられた。以下はその一例である。
顧客「昨日しっかり保湿パックもしたし、今日は前回より肌の調子がいい感じがするんです。」
美容部員「では、水分と油分を測ってみましょうね……。(測定器を当てる)水分量は30%、油分量は30%ですね(※理想値は水分量60%以上、油分は40〜50%)。数値で見ると水分がやや不足しているようです。」
顧客「えっ、そんなに乾燥してるんですか?自分では潤っているつもりだったんですが……」
美容部員「表面は潤っていても、内側が乾いているインナードライ状態かもしれませんね。昨晩パックをされたとのことですが、例えばアルコール成分のある化粧水をお使いでしたら、一時的に潤った感じがしても肌の内部は意外と水分が足りていないことがあります。それに、今日は朝から冷暖房で空気が乾燥していますので、その影響でお肌が水分を逃がしやすくなっているのかもしれません。」
顧客「そうなんですね……。」
美容部員「ただ、ご安心ください。大きなトラブルではありませんので、例えば保湿力の高い美容液に替えてみるとか、ケアの工夫で改善できますよ。肌状態は季節や体調でも日々変わりますから、今日の結果も『こういう日もある』くらいに考えていただければ大丈夫です。」
このやりとりから、機器計測の客観数値と顧客の主観的体感との齟齬に対し、美容部員が即興的な説明を加えている様子が読み取れる。美容部員は「インナードライかもしれない」 「空調の影響かもしれない」といった要因を提示し、「なぜ数値と感覚が食い違うのか」を物語的に納得づけている。その説明によって、顧客は自らの感覚と機械の示す客観データとの両方を受け入れやすくなり、カウンセリングは円滑に進行する。ここで美容部員が動員した知識は、マニュアルに明記されたものではなく、日々多数の顧客対応を重ねる中で蓄積した経験知や勘に基づくものである。実際、別の場面では「昨晩お酒を飲まれましたか? アルコールで一時的に肌がほてると油分が多く出るんです」といった説明や、「生理前でホルモンバランスが変わる時期なので不調が出ているのかもしれませんね」といった説明がなされているのも観察された。それぞれ内容は異なるものの、いずれもその瞬間の状況に合わせた一回きりの理由づけであり、数値と感覚の食い違いを埋め合わせる役割を果たしている。
5.everyday worldとノンスケーラビリティからみる
美容部員の実践
第4節の事例に見られるような、美容部員による即興的な調整実践を、スミスのeveryday worldとチンのノンスケーラビリティの視点から再検討してみたい。まずスミス的視点からは、肌診断カウンセリングで起きた「数値と体感の不一致」というねじれこそ、日常世界を起点に制度的枠組みを問い直すための入口となる。測定器が示す数値データは、化粧品メーカーや美容業界が共有する標準化されたテクスト(客観化された知識)であり、一種の制度的言説と言える。他方で顧客の「潤っているつもりだった」 「調子が良いと感じる」といった主観的訴えは、当人の身体経験に根ざしたローカルな知である。両者の齟齬は、まさに制度的テクストと個別の経験世界との接点で生じるズレであり、スミスのいう「日常世界の問題圏」に他ならない。制度側の論理ではこのズレはノイズや誤差として片付けられがちだが、スミスはそこにこそ着目すべきだとする。美容部員はまさにこのズレを無視せず、顧客の経験世界に即した形で解釈を与えている点で、日常世界に潜む社会的組織化を可視化する実践を行っていると捉えられる。つまり、美容部員はその瞬間の対話を通じて、数値(客観知)と肌感覚(主観知)を架橋するローカルな物語を紡ぎ出し、制度的テクストが現場でどのように意味づけられるかを具体的に示しているのである。これはスミスの言う「客観化された知識」への現場からの応答とも解釈でき、日常世界の側から制度的現実を再構成する行為といえよう。美容部員の調整実践は、一見取るに足らない現場対応のようでいて、日常経験の厚みを通して制度的知識の運用を組み替える知的作業でもある。
次にチンのノンスケーラビリティの視点からこの現場を見直すと、別の意義が浮かび上がる。肌診断カウンセリングにおける即興的な要因説明は、マニュアル化・再現化が難しいその場限りの振る舞いであり、まさにノンスケーラブルな要素である。美容部員は各顧客、各状況に応じて、その都度説明を創り出している。それは、全店舗・全顧客に画一的に適用できる汎用解答ではなく、個々の文脈に最適化された即興解答である点で再現性がない。資本主義的なサービス産業は一般に、接客マニュアルや統一研修によってサービスの標準化・スケール化を図ろうとする。しかし現実には、この事例が示すように標準化された数値指標だけでは対応しきれない局面が生じる。その穴を埋めているのが現場の労働者による非公式な知恵やアドリブ対応であり、そこには企業が完全には制御できない要素が介在している。チンの議論になぞらえれば、測定器による数値評価というスケーラブルな装置の背後で、各美容部員が発揮する個人の経験知や対人スキルは、企業にとっての「サルベージされる要素」に近い。企業側(制度側)はそれら非公式知に完全にはアクセスできないが、現場任せにしつつ巧みに利用してサービスの質を保っているとも言える。ノンスケーラビリティ概念は本来、グローバル資本主義の中で規格化に抗う周縁現象を捉えるためのものであったが、同様の視点で身近なサービス労働を見れば、標準化の陰にこのような非標準の価値創出が横たわっていることが理解できる。美容部員がその場で紡ぐ物語は、言わば小規模で再現不能な一点物の価値であり、それ自体は交換可能な商品にはならない。しかしその場に居合わせた顧客にとっては意味を持つ価値(安心感や納得感、信頼関係)を生み出している。これは資本主義的標準化プロセスから零れ出る形で生まれる価値創出であり、チンの言うノンスケーラブルな実践の一例と見ることができる。
以上のように、美容部員による即興的な調整実践は、everyday worldとノンスケーラビリティという二つの観点からそれぞれ含意を持つことが分かる。すなわち、日常世界の厚みから制度的テクストの意味を組み替える現場知の行使であると同時に、標準化不能な形で価値を付与する周縁的実践でもある。この「制度と現場のねじれ」への対処そのものが持つ積極的な意義を捉え直すことで、我々は現代のサービス労働に新たな光を当てることができるだろう。
6.客観データと主観感覚をつなぐ知識生産
以上で示したような肌診断カウンセリングの現場に見られる即興的調整行為は、制度化された客観知と個別具体な主観知との狭間で行われる知識生産として捉えることができるだろう。ここで美容部員は単なる商品販売員ではなく、科学的データ(肌測定値)と生活者の感覚(肌実感)をつなぐ通訳者・調整者として機能している。客観的な数値を鵜呑みにして顧客の主観を否定するのでもなく、逆に主観だけを尊重して測定結果を無視するのでもなく、両者が整合するような物語を場内で創出するその姿は、一種の知識生産として評価されうる。ここでは知識が一方向に伝達されているのではなく、現場で対話的に共創されている点が重要である。測定器という制度的テクストが提示する「客観的事実」ですら、現場のやりとりの中で再文脈化され、顧客それぞれの生活世界に適合する形に調整されて初めて意味を持つ。言い換えれば、美容部員と顧客の関わり合いを通じて、肌という身体をめぐる知識がその場ごとに再編成されているのである。このプロセスは、スミスの指摘したように従来の抽象的な知識体系が見落としてきた日常世界の知を浮かび上がらせるものであり、またチンの強調した不確定な状況下での即興的な価値創出が、日常の労働空間でも確かに起きていることを示す。
以上、本稿では美容部員による肌診断カウンセリングの実践を事例に、客観数値と主観的体感の不一致に対する即興的調整行為を分析した。スミスのeveryday worldの視点からそれは制度的テクストの現場における再解釈プロセスとして位置づけられ、チンのノンスケーラビリティの視点からそれは非標準的な価値創出の実践として評価できることを示した。これらの考察を通じて、資本主義的標準化の網の目から零れ落ちる周縁的実践にこそ着目する意義、および日常生活世界を出発点として制度のあり方を問い直す方法論的可能性を確認した。
参考文献
赤嶺淳,2010,『ナマコを歩く──現場から考える生物多様性と文化多様性』,新泉社.
赤嶺淳,2017,『鯨を生きる──鯨人の個人史・鯨食の同時代史』,吉川弘文館.
Smith, Dorothy E., 1987, The Everyday World as Problematic: A Feminist Sociology, University of Toronto Press.
Tsing, Anna Lowenhaupt, 2015, The Mushroom at the End of the World: On the Possibility of Life in Capitalist Ruins, Princeton University Press.(赤嶺淳訳,2019,『マツタケ──不確定な時代を生きる術』みすず書房.)