先端課題研究23「〈面白い〉研究の研究──規格不能性と向きあう」ブックトーク
「『内在的多様性批判』をひらく──著者・久保明教さんに聞く」コメント
多様な否定の果てに生きる
──残余としてのAnthropos
菊谷 和宏
一橋大学大学院社会学研究科 教授
本稿の目的と構成 1)
人類学者・久保明教氏の筆による『内在的多様性批判』(作品社、2025)は、全体として、人類学諸理論の変遷を批判的に辿ることによって、原理的に達しえぬ「存在そのもの」を多角的に照射し、もって「このでたらめな世界における人間的(人類的)な──つまり多様かつ内在的な──現実」を見定めようとする格闘の記録と捉えることができる。これに応じて本稿は、共闘の念をもっていくつかの疑問点を挙げることで──人類学的思考様式から見ればいささか「的外れ」であることを承知しつつも──この書の奥深い意義を明らかにすることを試みるものである。その果てには、元来規格不能な「我々の生そのもの」が立ち現れよう。
Ⅰ 否定神学を否定する否定神学(世界=人間の事実性について)
Ⅱ 否定の先にあるもの(世界=人間の普遍性について)
Ⅲ 残された否定(世界=人間の経験性について)
Ⅰ 否定神学を否定する否定神学
──「論理的に突きつめないと描けないグチャグチャ」(p.313)2)
本書において「否定神学」の語は、基本的には否定的《ネガティブ》な含意をもって用いられている。少なくともそれは、乗り越えられるべき対象とみなされている。
※《 》内の青字は前の語にルビ表記。pdf版参照。以下同様。
存在論的転回が「存在論」という標語に固執したことで否定神学的な隘路に至った (pp. 281-282:以下特に断らない限り強調(下線表記)は引用者による)
こうした「ない」という否定的な表現に強く依拠する論理は……広義の否定神学、「肯定的=実証的《ポジティブ》な言語表現では決して捉えられない、裏返せば否定的《ネガティブ》な表現を介してのみ捉えることができる何らかの存在がある〔…〕とする、神秘的思考」[東 一九九八:九四~九五]を、「存在(論)」という概念自体に差し向けたものに他ならない……こうした否定神学的な傾向は……。(pp. 268-269)
しかるに、本書で用いられる論理の形式とその向かう先は、実のところ否定神学のそれであると看取される。
ラトゥールの言う「プラズマ」は、ストラザーンの言う「空隙」と同じく、世界の根本的な不可知性の局所的な現れを関係論的に表現したものである。……異なる「知りえなさ」を伴う彼我の世界が相互に接続されるなかで「個人」や「社会」や「自然の事実」といった世界を捉える既存の普遍的な枠組が「ないこともありえる」ものとして対象化される。……不可知性とは認識論的であると同時に存在論的な契機である。というのも、それは「この世界には常に私たちの知らないことがある」ことを意味するから……。(p. 299:あるの太字は原文では傍点)
この根本的な不可知性によってこそ示される「世界」の「存在性(現実性)」は、その「根本的な可変性」、原理的な「捉えどころのなさ」として現れる。「Anthropos(人類、人間)」の存在についてもまた同じである(……というよりもここでのAnthroposと「世界」は同じものだろう)。
内在的多様性批判が目指す方向性として提示した「世界の根本的な可変性を客体化すること」(p. 312)
人類学的思考の最終的な対象としての「人類」(Anthropos)とは、生物学的な単位に仮託されてはいるが固定的な実体ではなく、異質な他者としての「彼ら」と近代社会を生きる「私たち」のあいだを揺れうごく、根本的に定まった形を持たない存在なのである(図1)。(pp. 33-34)

この「定まった形を持たない」という観念は「定まった形」という観念を前提とし、その否定として成立する。ゆえに上記引用文は「『人類』なるものは、『これ』と確定的に指し示すことはできないが、存在しないのではない」──あくまで「存在しないのではない」であり「存在する」ではない!──ということの別様の表現と理解しうる。
かくして、人類学は「異端の神学」と解される。
近代諸学を、神の地位を部分的に譲り受けた「人間」に関する神学(経験的位相と超越論的位相をつなぐ自然・社会・経済・法・心理などの回路の探求)として捉えれば、人類学者とはたえず神を批判し相対化や更新を試みる異端の神学者だということになるだろう。(p. 46)
人類学者を否定神学者と捉えれば、「異端」でさえなかろう。
それにしてもなぜ、否定神学の論理を用いている「内在的多様性批判」が、にもかかわらず否定神学の語を肯定的に用いないのか。それは(人類学の伝統に従って?)「否定神学」を「神秘的思考」すなわち非論理の側に割り振った結果だと思われる。
先の図1のように「超越」と「超越論」を分け、前者を神的次元に割り振り、後者を人間の経験に隣接する次元に割り振る仕方では、前者が「ないのではない」ことを否定できていないのではないか。端的に言えば、歴史上しばしば報告される「清明な意識に直接与えられた、明晰な神秘体験」は「超越」の「経験」ではないのか。また、そもそも人類学の経験性はどこに根拠付けられるのか。さらに言えば、「超越論的だが超越的でない否定神学」がありえ、実はそれこそが本書の目指す「人類学Anthropology」なのではないか。これらの疑問を念頭に置きつつ、先に進もう。
Ⅱ 否定の先にあるもの
──オルタナティヴな普遍、相互旋回のサイクル
肯定神学と否定神学の峻別点が、前節で見たような「世界(ないし人類)という存在(事実、現実)」のありようだとすれば、本書は「オルタナティヴな普遍」と呼ぶ概念を提起し、これと異質な他者との接触を伴う絶えざる運動・変容(脱-再構築、相互旋回のサイクルなど)として世界(人類)の現実の探究を捉え、説明しようと試みる。
内在的多様性批判における多様性を捉える枠組の多様性とは、そうした枠組が独立して複数あることも、それらを外側から客観的に捉えられることも意味しない(それができるのであれば多様性を捉える単一の基準があることになるからだ)。むしろそれは、自らにとって馴染み深い枠組がその運用の内部において他者にとって馴染み深い枠組と相互に浸透しあう契機において示される。ここには、彼我の枠組を総合してオルタナティヴな普遍を図式的に提示する試みを妨げるものは何もない。デスコラの同定図式論もグレーバーの価値論も……彼我の部分的連接の一様態として捉えうる。デ・カストロの多自然主義もストラザーンのメラネシア的社会性も……オルタナティヴな普遍の一様態として捉えうる。(pp. 305-306)
「普遍的なるもの」は……実務的で標準的な媒体においてイメージされている。本書における学説史的読解の産物としての内在的多様性批判の先に見いだされる道筋は……実世界に配備されつつある標準的な媒体としての普遍をめぐる記述と分析を、オルタナティヴな普遍と彼我の部分的連接の相互旋回のサイクルに組み込んでいくことである。バラバラな世界をフラットにつないでいく標準的な枠組を、自己と他者の部分的連接と相互に置き換えるなかで捉え直し、相対化し、再編していくこと。それが、このバラバラな世界をバラバラなままつなぐための思考の筋道となる。(pp. 306-307)
だが、この「相互旋回のサイクル」は、結局のところ単なる循環なのではないかとの疑念を抱かせる。それは(「私たち」の!)近代的思考様式に付きものの、あの「際限のない自己言及」の輪に閉じ込められてしまったのではないのか。
そうでないとすれば、それは「複数の普遍的枠組」への終わりなき挑戦であり、原理的に永遠に終端には達しえないという意味で、否定神学の立ち位置そのものではないのか。
また、「オルタナティヴな普遍」とは何か。それが「オルタナティヴな」すなわち「他でもありうる」ものであるとしたら、語の正確な意味において「普遍的」とは言いえないのではなかろうか。
だとすると、この「旋回のサイクル」は、実のところ「名指しえぬなにものか」を暗黙裡に前提としてはいまいか。オルタナティヴな普遍とは、超越(論)的普遍の下位区分であり、そのようなオルタナティヴな普遍の外側に、単一とも多様とも示しえない、語の正確な意味での普遍が──「ある」のではなく──「ないのではない」のだろうか。
かくして、本書のタイトルたる「内在的多様性批判」は次のようにまとめられる。
こうした一連の契機からなる内在的多様性批判は……この世界に生起する多様な事象を内在的に追跡し比較することを通じて多様性を把握しうる新たな普遍的枠組を提示すると同時にその限界を顕在化させることによって異質な他者との部分的な連接を生みだしていく試みとして示されることになる。(p. 281)
このように、存在論的転回の源泉とされた議論に「構造なきレヴィ=ストロース」の発展的な継承を見いだすことによって、彼我の通約不可能性に基づく人類学的な記述を、この世界が根本的に変容する可能性を客体化(あるいはワグナーが言う意味で「創出」)する装置として捉えることが可能になる。内在的多様性批判における「批判」とは……私たちが生きるこの世界が真に変わりうるということを現実的かつ想像的な根拠をもって示すことである。……オルタナティヴな普遍と彼我の部分的連接を相互に置換する斜方的な比較には、世界の根本的な可変性を客体化する装置として人類学的記述を構成するという……明確な目的が備わっている。世界が変容するということは世界を生きる私たち自身が変容するということでもある。内在的多様性批判とは、世界を捉える既存の枠組がないこともありえるとしたら私たちはいかなるものでありうるかを探求する試みであり、「私たち=人類」という不定の存在が潜在的にとりうる姿形を彼我の通約不可能性と部分的連接に基づいて客体化=創出する準-普遍主義的な装置なのである。(p. 300)
しかしそうなると、つまるところ、世界=人類の現実を説き明かす試みとしての内在的多様性批判は、「そういう見方をすることもできなくはない」 「そういう見方をすれば見えてくるものがある」の水準にとどまり、「経験的に肯定できる」の水準には──ひいては存在論の水準には──届かないのではなかろうか。
あるいは、そもそも経験性にこだわってはいないのか。とすれば人類学はやはり(超越的・神秘的ではなく)超越論的神学なのだろうか。この問いが浮上する一つの契機が、「本書内では一人称が常に複数で語られている」ことであるように思われる。次節ではこの点を検討しよう。
Ⅲ 残された否定──論理性と経験性、「私たち」と「私」
第一声が「私たちは」であることに象徴されるように、本書で描かれる主体(主観、一人称)は常に複数であり、単数すなわち「私」ではない。議論は終始「彼ら」対「私たち」の形式で進められ、決して「世界」対「私」の形では語られない3)。
だが、仮にも人類学が経験科学でありうるとすれば、その経験性はどこに根拠付けられるのか。換言すれば「私たち」は経験主体たりうるのか。
というのも、「経験そのもの」は主体(主観)間で共有されないからだ。「私たち」と「私」は質的に別物である。一人称複数「私たち」とは、実際には一人称単数と二/三人称の混合であり、「私」と「私が同類と考えるあなた/彼ら」である。つまり「私たち」と「彼ら」の対は、経験の水準においては「私」と「私ではない者」の対となり、「私たち」のうちの「私以外の者」は客体(客観)すなわち「彼ら」の側に収まるのだ。
この主客の壁を飛び越えようとする時、「私たち」の主体的経験性を根拠付けるために、超越的審級が密かに呼び戻されるのではないか。
神や人間を俯瞰してその是非について、経験の外にある超越的な審級に依拠せずに語るというふるまい自体を可能にしているのは、その語り手が世界の最終的な根拠たる「人間」の一人であるという前提に他ならない。私たち一人一人は有限の経験しか持たない脆弱な存在であり、いわば小文字の人間(man)にすぎないが、経験を論理的に超える(=超越論的な)地点から思考できる大文字の人間(Human)と自らを同一視する限りにおいて、神のような超越的審級に依拠することなしに世界を理解できる主体となる。(p. 30)
「まさにこのようなHumanの措定こそ、超越的審級に対する依拠だ」という指摘に対して、どのように反論できるだろう。いくら「超越的ではない、超越論的だ」と規定しても、それが「経験を論理的に超える」以上、経験性を超越と同程度に大きくはみ出してはいないだろうか4)。
無論、本書で筆者の提起する「内在的多様性批判」は、とりわけあの「オルタナティヴな普遍と彼我の部分的連接の相互旋回のサイクル」は、このような人類学の限界を乗り越えようとする試みではあろう。だが、それにしても、人類学が今後も経験科学としてあるのであれば、「私たち」と「彼ら」は議論の前提に置けないのではなかろうか。さもないと、人類学は「神のない神学」になりかねないのではないだろうか。
そうではなく、内在的多様性批判があくまで人間の生の世界の現実を見定めようとするのならば、死すべき存在である「私」と死を超えうる存在である「私たち」の区別は明確にしておく必要があるように思われる。
かくして、本書の議論の果てに見いだされるAnthropologyは、「超越論的人類学」とでも呼ぶべきもの、「大文字の人間Human」が「小文字の人間man」の経験に先立って──「神」に代えて?──否定的に措定される「異端の神学」たる「人類教」なのだろうか。それとも、「(私のではなく)私たちの生」を捉えうる、いわば「生の人類学」に達するのだろうか。というのも、本書における「旋回」「経験」 「現実」 「認識」そして「存在」といった語は、そもそも肯定的=実証的《ポジティブ》に規定しえない──つまり〈規格不能〉な──「生そのもの」に対する、多様で多角的な照射なのだから。
註
1) 本稿は、先端課題研究23「〈面白い〉研究の研究──規格不能性と向きあう」ブックトーク「『内在的多様性批判』をひらく──著者・久保明教さんに聞く」(2025年12月17日於一橋大学)において配付した口頭発表用のレジュメに、単体で自立する論考たりうるよう最小限の修正を加えたものである。
2) 以下本稿中で指示されるページはすべて『内在的多様性批判』のものである。
3)「私」という表現が本書に皆無というわけではない。例えばpp.40−41ではE.バンヴェニストが、pp.65−66ではV.クラパンザーノが参照され、一人称の「私」について論じられている。だが、そこで語られている「私」の内実は単数ではない。なお、バンヴェニスト(言語学者)はF.deソシュールの弟子A.メイエの弟子(つまりソシュールの孫弟子)であると同時にP.ブルデューの師の一人である。
4) そもそも超越は〈規格不能〉ではあっても必ずしも非論理的ではない。否定神学は必ずしも神秘的思考ではない。概念化(言語化)が分節化(区別)である以上、言表は常に「そうでないもの」からの区別としてあり、つまり肯定神学(肯定論理)は否定神学を前提としており、その意味で否定神学をとりたてて神秘的とは呼べないのではなかろうか。あるいは論理的-合理的思考と同程度に神秘的と言うべきか。
参照文献
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久保明教,2025,『内在的多様性批判──ポストモダン人類学から存在論的転回へ』作品社